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魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

旅について 遊びについて 夢について 人生観について 本について 愛用品について ありったけの思いを語ります

 

友よ

先日の定休日、午前中に映画を観た後、京成線の列車に乗って堀切菖蒲園に向かった。昭和の面影が残るやや寂しげなその駅に降りると、平和通りを小岩方面に向かって歩いた。先に腹ごしらえをしておこうと思ったが、適した店が見当たらなかった。仕方なく、ぼくは目的地に向けて歩きつづけた。雲ひとつない冬の空。馬鹿みたいに晴れわたったその空が、むしょうに悲しく見えた。

まだ半分は信じられない気持ちを抱えたまま、目的地についた。入り口ドア付近に立つスタッフに声をかけ、案内をしてもらう。数分前に連絡を入れていたので、すぐに理解してもらえた。

「では、どうぞ。ゆっくり話されてください」

終わりましたら声をかけてください、といい、スタッフはその場を辞した。

ぼくと友の2人がその場に残った。何の音もない、何の匂いもしない、無機質な空間。ぼくはしばらく立ちつくした。目を細めて、友の顔に近づいた。グレーの髪には寝ぐせがあり、カサカサの顔には無精ひけがのびている。死化粧は、出棺の直前にするのだろう。

中学のときの同級生だ。本当に仲がよくて、いつも一緒に馬鹿騒ぎしては、授業を破壊していた。高校はべつべつだったが、卒業後も、しょっちゅうつるんで遊んだ。その友の家は仲間うちのたまり場になっていて、おじゃましま〜す、と言って階段を駆け上がると、おう、とうれしそうな顔で迎えてくれた。手土産に買ってきたスナック菓子をぱくつきながら、ただだべったり、当時流行っていたファミコンをしたりしてすごした。スーパーマリオブラザーズとか、初期のファミスタとか。対戦すると、どのゲームも持ち主である友の方が圧倒的に強くて、その勝ち方のずる賢さや、ぼくの負けっぷりのみじめさを、互いにげらげら笑ったものだった。

べつの友人から連絡が入り、そこに向かうときは、たいていぼくの自転車で「2ケツ」した。ぼくらが住んでいた町はやたらと起伏が多く、どの友達の家にいくにも必ず急な坂を一つ二つ越えるのだった。上り坂は根性で、下り坂は気合いで、2ケツのまま越えていく。ものすごいスピードで坂道を走り下り、そのままブレーキをかけずにカーブを曲がっていくと、荷台に座る友が、ハングオン切るな馬鹿あっ、と叫んだものだった。

高校を卒業し、大人になると、会わない時間が増えていく。それは仕方ないことだ。ぼくは町を離れたし、当然、仕事はべつべつだし、いろいろと忙しくなる。地元の仲間でつくった草サッカーの試合で、月に一度は会っていたが、それも大勢の中でのことで、個人的なつきあいはほとんどなくなった。仲違いしたとか、そんなことではなく、自然とそうなったのだ。

ただしいていえば、ぼくの方が少しだけ、かれをさけた面はあった。酒ぐせが異常にわるかったのだ。酔うと誰彼かまわずからみはじめ、乱闘にいたった。それがいやで、忙しさを理由に誘いにのらなくなった。

その酒がたたって身体を壊した。肝臓に癌が見つかったのだ。2年前のことで、その時点でかなり進行していたのだと、共通の友人に伝えられていた。その友人が先日、奥さんと一緒にぼくの店にきて、もう長くないかもといっていた。だから覚悟はできていたのだが、実際に訃報を伝えられると、身体から力が抜けるほどショックだった。

家族の意向で通夜も葬儀もおこなわず、亡くなった日から約10日後の土曜に、自宅から出棺するという。ぼくは店があるから、そこにはいけない。本当はそこにいって、おそらく大勢くるだろう昔の仲間と一緒に、かれを送ってやりたかった。だがそのために店を休むわけにはいかないし、友もそれを望んではいないだろう。だから自分の休みの日に、こうして安置所にやってきて、お別れをいいにきたのだ。

幸せだったかい。

もう1ミリも表情を動かすことのない友に向けて問いかけた。かれはずっと独り身で、一見、寂しい人生のようにも思えるけど、それでも楽しいことや嬉しいことは山ほどあったはずだと、ぼくは信じている。

だけど、それでもやっぱり短ずぎる人生だ。

生きていると、こんなふうにして友を見送ることが増えていく。1年前にも、同級生が亡くなった。そのたび人生について考えさせられる。

自分の人生はあとどれだけつづくのだろう。もういいや。いつ死んでもかまわない。そんなふうにいう人もいるけど、ぼくはもっと生きたい。この人生が、この毎日が、ものすごく愛おしい。家族を愛しているし、友達を愛しているし、自分の仕事を、この店を、そこにきてくれるみんなを愛している。自分の人生を、心から愛しているのだ。だからこのままずっと生きて、この人生を、この毎日を、いつまでも味わっていたい。

斎場を辞した。

馬鹿みたいに晴れわたった冬の空に、ヒコーキ雲がのびていた。ぼくは目を細め、その空を見つめた。友に向けて、大好きな映画の台詞を口にする。

必死に生きるか。必死に死ぬか。

おれは生きるよ。

そっちにいくのは、まだ当分、先になる。そのときまで、見守っててくれな。


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永遠のあこがれ 〜高校サッカーの話

去年の秋頃、小学生のときのサッカークラブの友人が、ひょっこり店にきた。

覚えてますか、と学校名を口にすると、名前を告げられる前に誰だかわかった。会うのは40年ぶりなのに、すぐにわかるくらいに面影が残っていた。

聞けば、今もぼくらの地元の近辺に住んでいるらしく、そのあたりのスナックで飲んでいたところ、ぼくの中学の友人と隣り合い、言葉を交わすうちにぼくの存在にいきついたらしい。下総中山で店をやっていると知り、たずねてきてくれたのだ。

仕事は銀行員で、最近、本八幡店の支店長兼、この地域の統括部長になったので、隣駅にあるぼくの店にもきやすかったのだという。

それからちょこちょこ店にきてくれている。懐かしい名前を出しては、今度つれてくるよといってくれる。店をやっていると、思わぬところから縁が生まれるんだなあ、としみじみ思う。

ちなみに、この友人の4つ下の弟が子どもの頃から名のとおったサッカー選手で、世代別の日本代表の中心メンバーとして国際試合を何度も戦った。プロの選手にはなれなかったが、地域リーグの選手として長く活躍して、現在は福島県の尚志高校のサッカー部の監督を務めている。検索すれば、すぐに出てくる名物監督だ。

尚志高校といえば全国高校サッカー選手権の常連で、高円宮杯JFAのU-18サッカープレミアリーグEastでも、2023年は川崎フロンターレU-18や柏レイソルU-18をおさえて2位(1位は青森山田)という、超強豪だ。そこの監督が昔の仲間の弟ということで、ひそかに応援していた。サッカー好きのお客さんにも、昔の仲間の弟がぁっ〜って感じで自慢していた。昔の仲間といっても向こうは覚えてないかもという後ろめたさがあったのだが、その仲間と思わぬ再会をしたことで、今後は堂々と自慢できる。

というわけで、年末年始に行われた全国高校サッカー選手権も、尚志高校を応援した。残念ながら一回戦で負けてしまったので、その後は我らが千葉県代表の市立船橋高校を応援した。こちらは準決勝まで進み、青森山田高校にPK戦で敗れた。市立船橋とともに個人的に好きになった滋賀県代表の近江高校が決勝まで勝ち上がり、青森山田に敗れるも、堂々の準優勝に輝いた。

やっはり高校サッカーはいい。毎年、この時期になるとしみじみ思う。

ぼくはサッカーは中学までで、高校ではサッカー部に入らなかった。悔やんでいるとまではいわないけど、やっていたらどうだったかなとは、今でもときどき思う。

中学2年のときだ。冬休み、午前中の練習を終えてから、サッカー部の仲間5人と連れ立って国立競技場に高校サッカーを観にいった。準決勝。清水東高校(静岡県)VS帝京高校(東京都)、韮崎高校(山梨県)VS守山高校(滋賀県)の2試合がおこなわれた。

はじめての国立競技場に、ぼくは興奮した。満席のスタンド、芝のグラウンド、電光掲示板に連なるスターティングメンバーの名前。どれも重厚感があって、いつもぼくらがやっているサッカーが子どもの遊びに思えた。何よりプレーの質が段違いだった。やっぱり高校のサッカーはちがうんだと、ほれぼれしながら思った。

ここでやりたいと、強く思った。高校に入っても絶対にサッカー部に入り、全国大会に出て、この国立競技場のピッチでプレーしたい。

夢のまた夢だ。当時のぼくは、いちおうチームのレギュラーとして試合には出ていたけど、足を引っ張る側の選手だった。高校のサッカーともなれば、格段にレベルは上がる。自分が通用するかどうか、自信はなかった。だけどわからない。もしかしたら飛躍的に上達するかもしれない。何かのきっかけで「化ける」こともあると、顧問の先生もいっていたじゃないか。

だけど仮にレギュラーになれたとしても、選手権に出るには、強豪校を何校もやぶって県の代表にならなければならないのだ。果てしなく遠い道のりだ。それでもいい。とにかく高校に上がったら、サッカー部に入るのだ。まずはそこからだ。その先のことは、入ってから考えればいい。

それがモチベーションになり、それまで以上にサッカーに情熱を注いだ。部活の引退後も、高校サッカーに備えて自主練習をつづけたし、受験勉強もがんばれた。もちろん、正月の高校サッカーも観た。受験前だから国立競技場に足を運ぶことはなかったが、テレビにかじりついて観戦した。ちなみにその年の優勝校は帝京高校で、前年優勝の清水東は準優勝に終わった。

そして4月、晴れて高校生になった。その高校で、ぼくはサッカー部に入らなかった。とくに理由があったわけではない。なんとなく入りそびれてしまったのだ。いきたかった高校にいけなかったのも、理由にあったかもしれない。滑り止めの高校に行く羽目になり、なんとなく高校生活に希望をなくしてしまっていた。

小学5年生から、放課後はずっとサッカーだったから、それがない生活は違和感があった。物足りなさを感じつつ、自由な毎日が楽しくもあった。ガソリンスタンドでアルバイトをはじめ、中学の頃には考えられなかった額のお金を手にするようになった。お金を手にすると、部活をやっていない連中とつるむようになり、煙草をおぼえ、麻雀をおぼえ、パチンコ屋に入りびたるようになった。夜な夜な遊びに出かけるようになり、誘われて、暴走族の集会にも何度か出かけた。ヤバいなあと感じながらも、それはそれなりに愉快な日々だった。

2年生になってクラス替えがあり、九十九里からかよう同級生と仲よくなった。自宅から歩いてすぐ海だというその友人は、波乗りをやっていた。その流れで、ぼくも貯金をはたいてサーフボードを買い、夏休みの大半を波乗りに注いだ。2学期がはじまってもその熱はさめず、平日はガソリンスタンドでのアルバイト、日曜はサーフィンという生活をつづけた。

まったく新しい世界だった。部活だけが青春じゃない。むしろこの規律のない、自由な感覚がぼくにあっていた。社会人のサーファーとも知り合い、波乗りだけでなく、それ以外のいろんな世界を教えてもらった。学校という、ルールにしばられた世界を飛び出して、果てしなく広い世界で、ぼくは高校の3年間をすごした。

そこに悔いはない。部活のかわりに、ぼくには海があった。その経験が、今の人生につながったと思っている。型にはまらない自由な人生。進学も就職もせず、旅ばかりしながら生きて、破天荒な道を歩いた結果、今のぼくがある。

悔いはない。

悔いはないけど、どうしても考えてしまうのだ。あのとき、勇気を出してサッカー部の部室をたずねていたらどうなっていただろう、と。

あの日、一緒に国立競技場にいった仲間は、みんな高校でもサッカーをつづけた。店にくるようになったこの小学時代の友人も、高校でもサッカーをつづけたという。3年間、規律の中でもまれ、仲間と切磋琢磨して、勝った負けたをくり返して、3年間をすごした。それはかけがえのない経験だ。ぼくが持っていないものだ。

考えても仕方ないことだ。ぼくはサッカーを選ばなかった。それ以上でもそれ以下でもない。

人生とはそんなもんだ。何かを選ぶことは、何かを捨てることだ。その逆も然りだ。何かを選ばなかったことで、べつの何かを手に入れる。どちらが正しいわけではない。どちらを選んでも、それが人生なのだ。

ぼくが今こうして居酒屋の店主でいるのも、そうした人生の結果だ。自分が選んだその人生に納得するしかない。せいいっぱい、その人生を味わいつくすしかない。

とはいえ、来年の正月になれば、またいつものように高校サッカーを観るだろう。そしてまた、あのときサッカーをつづけていればと考えるにちがいない。それもわるくない。そんなことを考えながらも、自分の人生をしっかりとし歩けばいいんだから。






 
 

故郷はずっとそこに

誰にも必ず、故郷がある。

当店のお客さんの半分近くは地方出身で、かれらの故郷の話を聴くのがぼくは好きだ。北は北海道から南は九州沖縄まで、47都道府県すべての出身者がいて、その思い入れはやっぱり強く、なんかいいなあ、と思うのだ。

もちろん、子どもの頃からずっとこの土地に住んでいるという人もたくさんいて、それはそれで立派な故郷だと思う。ここが好きだから、ずっとここに住んでいるんだと、かれらにも強い思いがある。

だから、地方出身だろうと、地元民であろうと、あるいは首都である東京出身であろうと、誰にも必ず故郷があるのだ。

当然、ぼくにも故郷がある。

千葉市の南部、鉄道の駅でいうと蘇我(といっても駅から歩いて20分以上かかる)のあたりでぼくは育った。今では東京駅直通の京葉線があったり、アリオ蘇我という大きな商業施設があったり、街はみちがえるほど発展したが、当時は川崎製鉄(現JFE)の企業城下町で、あちこちにパチンコ屋があって、いかがわしい感じの店や劇場などがあって、なんとなくガラのわるい街だった。小学5年生のときにそこに転校してきたぼくは、ちっと気を引きしめていかないとやられちまうぞと、子ども心に思ったものだった。

そんな街で育ち、大人になっていった。

その実家を昨年、売却した。

ぼくも弟もとっくに実家は出ていたから、長い間、そこには父と母が2人で暮らしていた。その父が2001年に亡くなり、母が一人残された。それじゃ寂しいっていうんで、身寄りのない伯母(母の実姉)を呼びよせて2人で暮らしはじめたのだが、伯母は身体が弱く、何年かはそこで暮らしてはいたけど、次第に不自由になり、6年ほど前に、実家の近くのサービス付き高齢者住宅に入居した。

それからは母1人でその家で暮らした。

仕事が忙しくて、なかなか帰れなかったが、月に一度は母の仕事の手伝いなどで実家に泊まっていた。正月には東京の中野で暮らす弟も帰省して、一家団欒の時間をすごした。父がいなくなっても、伯母が去っていっても、ぼくら家族にとってその家はたいせつな場所だった。

だがぼくらは、その実家の売却を決めた。もう誰も、その家に住むことがなくなったからだ。

2019年に母が腰椎を骨折し、市原の病院に入院した。その間、ぼくも弟も時間の許すかぎり見舞いにいき、母を励ましたが、年をとってからの骨折はなかなか治りが遅く、病院のリハビリの先生がいうには、当面は(あるいは一生)車椅子生活になるだろうということだった。そうなると広い一軒家に一人で暮らすのは到底無理な話で、ぼくか弟が引き取るか、あるいは伯母同様、サービス付き高齢者住宅のような施設で暮らすか、考えなくてはならなくなったのだ。

ぼくも弟も仕事が忙しく、一緒に暮らしてめんどうをみるのは不可能だった。そうなるとサービス付き高齢者住宅か、あるいは介護つきの老人ホームに住んでもらうしかなかった。

母に話すと、それでいいという。

場所はぼくの住む市川にするか、弟が住む中野にするか、話し合うまでもなくぼくの店の近くにしようと話が決まった。これは長男だからということではなく、勤め人の弟より自営のぼくの方が何かあったとき動きやすいだろうという理由からだった。(弟の名誉のためにいっておくが、決して兄に押しつけたわけでなく、かれもうちの近くでもいいといってくれた)

すぐに市川市の地域包括支援センターにいき、ケアマネージャーを紹介してもらった。同時に住む場所もさがし、運よく店から自転車で10分(立ち漕ぎなら5分だ!)の場所に家賃も手頃なサービス付き高齢者住宅を見つけた。一部屋空いているとのことだったので、施設長と面談し、母が気に入ったらすぐにでも入居したいと申し入れた。正直、急ぎ足で決めた感があるがやむを得なかった。市原の病院の入院期間が怪我の大小に関わらず最長3カ月と決まっていて、その期限が迫っていたからだ。

後日、入院中の母を連れ出して、その施設を見にいった。気に入ってくれたようで、その場で入居を決めた。

2020年の1月初め、正月明けから、母の新しい生活がはじまった。とりあえず必要なものをそろえ、家に置きっぱなしの荷物は少しずつぼくが休みの日に運ぶことにした。落ち着いたら、実家の売却を進めようと思った。

そこへ、世界的なパンデミックがはじまったのだ。実家の売却は後回しになった。

新しい生活の中、母は週2回のデイサービスでのリハビリをがんばり、わりとすぐに車椅子生活から脱した。今はシルバカーでかなりの距離を歩けるようになった。短い距離なら、スティック1本で歩ける。

そんなこんなで、コロナも落ちつきつつあった昨年の春、実家の売却を進めたのだ。すぐに買い手が見つかり、秋には完全に手放した。

1979年に父が買ったぼくら家族の家は、43年の年月を経て、その役割を終えた。

これでもう、ぼくも、弟も、そして母にも、帰る場所はなくなった。今いる場所で、生きていくしかない。

だけど、故郷がなくなったわけじゃない。

実家はなくなったけど、ときどき地元に帰り、中学のときの友達と一杯飲っている。地元に残っているやつは多くて、平日が休みのぼくに合わせて、わざわざ集まってくれる。一番仲がよかったやつが地元をしきっていて、ぼくの帰郷(といっても電車で1時間弱、車なら30分の距離だ)に合わせて都合のいい連中に声をかけてくれるのだ。ときには中学のときはほとんど絡みがなかった人もくるが、同じ中学の仲間というだけで安心感があった。

先日も地元に帰り、中学の友達と飲んだ。その日集まったのはとりわけ仲がよかった3人で、よくいく居酒屋(そこの店主も中学はちがうけど同い年の友人だ)で飲み、その後、これまた同級生の女の子がやっているバー(とスナックの中間のような店)で遅くまで語り合った。

みんな幼なじみだから、気をつかうことはない。お互いの未熟だった頃を知っているから、格好つける必要がいっさいないのだ。それはすごく楽で、心地よい関係だ。

終電ギリギリまで語り、上りの列車で帰宅する。座席に沈んでうたた寝しながら、仲間との会話を思い出し、笑いをかみ殺す。

故郷はあるんだな、と思う。実家はなくなったけど、懐かしい友達はまだそこにいる。ぼくがそこですごした事実は永遠に消えない。

だから、誰にも必ず故郷はあるのだ。ずっと。ずっとそこに。
 
 

いつまでも少年の心を 〜または新しいスキー板の話

スキー板を買った。

SALOMONのS/RACEシリーズのSL10という板で、デモモデル、つまりはデモアスリート、エキスパート用の板だ。

ちょっと背伸びしすぎかなとも思ったが、何とかいけるだろう。この板を駆使して、今シーズンはより高いレベルを目指すのだ。レジャースキーから、スポーツとしてのスキーへと飛躍する。そのための板であり、この先こいつがたいせつな相棒になっていくのだ。

色は藍色に近いブルーで、ロゴは白で統一している。最終的にそのデザインが、この板を選ぶ決め手になった。材質がどうとか、性能がどうとか、そういったことももちろん大事だけど、最後はやっぱり見た目だ。今まで選んできたすべての道具がそうだったように。

家に持ち帰り、リビングの壁に立てかけて、うっとりと眺めた。しみじみと気に入った。この板にしてよかった。じつはもう1本気になった板があって、本当はそっちのメーカー(オガサカという日本メーカー)の板がほしかったのだ。その板は黒と赤のツートンで、そこがちょっと気に入らなかった。だけど国内メーカーのスキー板を使いたいというこだわりがあったから、最後まで悩んでしまった。帰途の道中も、やっぱりオガサカの方がよかったかなあと、うじうじと考えていた。だがこうして眺めていると、このブルーの板こそ、自分の相棒にふさわしいと思えてくるのだった。この板を履いて、白銀の世界を縦横無尽にすべりまくる光景を思い浮かべると、もういてもたってもいられなくなる。

ラグビーの世界の言葉で、「ラグビーは、少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の心を抱かせる」というのがあるが、これはラグビーに限った話ではないと思う。すべてのスポーツにいえるのではないだろうか。少なくとも、スキーには当てはまると、ぼくは実感している。

もっとも、ぼくがスキーをはじめたのは最近のことだから、少年をいちはやく大人にするかどうかは、想像するしかないのだけれど。

少年とえば……

その頃ぼくはサッカーをしていた。サッカー少年というほど積極的に好きだったわけではないが、小学5年生のときに、転校先の小学校のクラブに強制的に入れられて、そのまま中学3年までサッカーをつづけた。

昭和50年代中頃、当時は少年サッカーでスパイクを履くことはほとんどなく、中学の部活に入ってはじめて購入するのが自然だった。一応、部活動も学校行事の一環だから、そこで使う道具の費用は親が出すことになる。ただうちは父親が「サッカーなんて遊びだから買いたきゃ自分のこづかいで買え」という主義で、ビタ一文出してくれなかった(試合など会場への交通費はギリ出してくれた)。同情した母が、パート先の同僚から、息子さんが中学時代に履いていたお古をもらってきて、それをぼくにくれた。見るからに古めかしく、メーカーもサッカーのものではなく(美津濃だった)、ぼくは泣きそうになりながらそのスパイクを履いて練習した。

自分のスパイクを買ったのは翌年の正月明けだ。親や親戚からもらったお年玉をポケットに入れ、自転車を飛ばして千葉駅近くのスポーツショップに向かった。

当時の一番人気はアシックスで、同期の仲間や先輩らの大半が使っていた。あとはプーマとアディダスが半々といった感じだった。ぼくはプーマを狙っていた。憧れの先輩が使っていたからだ。

スポーツショップを何軒かまわり、だいたい買うべきスパイクは決まった。やはりプーマだった。白のプーマラインが入った漆黒のスパイク。自分の相棒はこいつしかいないと胸がときめいた。あとは値段だ。1番安い店で買おうと思い、自転車を立ち漕ぎして、可能な限りのスポーツ店を訪ねてまわった。

あらかたのスポーツショップをまわり終え、一番安かった店に戻って、お目当てのスパイクを履かせてもらった。そこは店の人の感じもよく、ちょっと待っててね、と微笑みながら在庫をさがしてくれた。

しかし運わるく、その店に自分に合うサイズがなかった。

その時点であたりはもう暗かった。これからまたべつの店に向かうのも億劫だし、下手すると閉店時間がすぎているかもしれなかった。ここでべつのスパイクを選ぶか。アシックスか、アディダスか。いや、やっぱりプーマだ。プーマのスパイクがほしい。

「試合、近いのかい?」

がっくりとした顔を隠そうともしないぼくを見かねて、店の人が訊いてきた。

はい、とぼくは答えた。1年生大会が、2月からはじまる。

「プーマがいいの?」

「はい。でもサイズないんですよね?」

「そうだねえ。次の入荷は3週間は先だねえ」

1月中には届くという。1年生大会には間に合うが、できれば今すぐほしかった。4月の入部から9カ月も待ったのだ。明日からその新しいスパイクを履いて練習したかった。

「プーマ以外なら、サイズあるんだけどなあ。ほかじゃ駄目なの?」

駄目だった。アシックスは仲間のほとんどが使っていて、できれば避けたかった。アディダスは、何となく好みじゃなかった。

どうしようか、と考えていると、店の人が、べつのスパイクを持ってきて、ぼくに差し出した。見たことのないデザインだった。

「これなんかどうかな? 」

ブーメランみたいな黄色のラインが2本入った、黒いスパイクだった。ヤスダという、国内初のスパイクメーカーだという。

「高校のサッカー部らの間で人気なんだよ」

そういって店の人は、名だたる高校の名を列挙した。全国屈指の強豪校の名もあった。

「日本人の足に合わせたつくりでね、いいよ、これ。絶対オススメ。くるよ、これから」

ぼくは考えこんだ。当時のサッカー少年にとって、先にあげた3つのメーカー以外は、笑い物になる風潮があった(ぼくの美津濃がまさにそうだった。美津濃は素晴らしいスポーツメーカーだが当時は野球のイメージしかなかった)。だが高校生の間ではやっていて、店の人もおすすめだとう。何より、見た目がよかった。びびっとくるものがあった。値段も、お目当てだったプーマのスパイクより、だいぶ安い。履いてみると、たしかに足にピッタリだった。何より、誰も持っていないというのが、何となく胸に響くものがあった。

「これ、ください!」

チャリンコをかっ飛ばして家に帰った。親から帰宅が遅いと怒られたが、へっちゃらだった。部屋に入り、うっとりとそのスパイクを眺めた。気に入った。このスパイクで、ガンガン、ゴールを決めてやるぜと、気持ちがたかぶった。

翌月にはじまった1年生大会で、ぼくはゴールを決めまくった。……といいたいところだが、大会をとおしてぼくが決めた得点は2点だけだった。ポジションが守備的MF(現在でいうボランチの位置)で、敵の攻撃の芽を摘むのがぼくの役割だったのだ。チームの勝利に貢献できたのかどうかはわからないが、ぼくたちは面白いように勝ち進み、千葉県のベスト4に入った。

結局サッカーは中学3年まででやめてしまったが、あの頃の記憶は今も鮮明に残っている。サッカーがぼくをいち早く大人にしてくれたかはわからないけど、大人になって振り返ると、あの3年間(小学生のときを入れて5年間)は、ぼくの人生においてなくてはならない時間だったと断言できる。

あれから40年、あの頃と同じ気持ちで、新しいスキー板を眺めている。自転車をかっ飛ばして、スパイクを手に入れたあのときと、まったくかわらない気持ちで。

笑いがこみ上げてくる。

今年もまたスキーシーズンがはじまる。
 
 

人生の山登り 〜または引越しの話

引っ越しをした。

……といっても同じ市内の近場から近場、賃貸アパートから賃貸アパートへの引っ越しで、とくに必要に迫られたものではない。単なる気分転換というか、断捨離をしたかったのだ。

使わなくなった道具、着なくなった衣服、読まずに取っておいた本、一切合切を捨てて、身軽になりたかったのだ。

当然、お金はかかった。物を捨てるといっても単純にゴミ捨て場に出せばいいわけではなく、最終的には業者に頼むことになった。引っ越したら引っ越したで、今度は新しい住まいにふさわしいカーテンやら絨毯やら家電やら、その他もろもろ買ったから、そこでもお金がかかった(断捨離とは矛盾するけど、しょうがない)。そもそも不動産屋との契約の際に、敷金だの礼金だの火災保険だのと、かなりの額を支払った。結局、なんだかんだでウン十万円がすっ飛んでいった。

だけど、そうやって大金をかけて引っ越しをする、という行為に意味があったのだ。何かがかわるような、いい風が吹きはじめるような、そんな期待で心がはずむのだ。

実際、6月の初めに引っ越しをして、そこを境に運気が上がった気がする。少なくとも、仕事運は上がった。この季節にしては来店客数が多いし、はじめてくるお客さんも多い。そのお客さんの大半が店を気に入ってくれて、二度目三度目とかよってくれている。結果、売り上げも好調で、この分なら引っ越しにかかった費用も、繁忙期前に取り戻せそうだ。

家の感じも気に入っていて、生活が豊かになったと実感できる。

間取りはメゾネットタイプの2DKで、1階に広めのダイニングキッチンと風呂、トイレ、洗面場、バルコニー、2階に洋室と和室の2部屋とバルコニーといった感じだ。

和室がぼくの部屋だ。ぼくは畳の上で寝たいタイプで、妻は子供の頃からベッド派だから、これはすぐに決まった。

断捨離したとはいえ、店関係の書類や過去のメモ帳、どうしても捨てきれなかった書籍や雑誌などを置くと、部屋はかなり手狭になった。その狭いスペースに、さらに机を置いて書斎みたいにする予定でいる。

書斎といっても、店がある日は家にはほとんど寝に帰るだけだから、使うのは休みの日だけだ。その休みにしたって家にいるなんてほぼゼロだし、帰宅後はリビング(本当はダイニングだが、ぼくらはあえてリビングと呼んでいる)でテレビを観ながら晩酌などしてすごすから、書斎を使う時間なんてほんのわずかだ。だけどそのわずかな時間、たとえば寝る前の1時間、本を読んだり書き物をしたり人生について考えたりする、そのわずかな時間が重要なのだ。1人で静かに1日を終えるための、自分だけの空間がほしいのだ。そこには机は不可欠であり、何なら机を置ける自室がほしいから引っ越しを決めたといってもいい。

その机は先日購入した。今はそれが届くのを、首長竜になって待っているところだ。

とにかくそんなこんなで、新しい生活がはじまったわけだ。

ところで……

今回の引っ越しで、何カ所目の住まいになるのか数えてみたら、実に11カ所目だった。そのうち子ども時代の、つまりは親に扶養されていた頃の家が3カ所、住みこみの仕事で暮らしたが部屋が2カ所、それを差し引いた6カ所が、自分で家賃を納めて暮らした部屋だ。

この年齢になって、いまだ賃貸の部屋というのも情けない話ではあるが、まあそれは生き方の問題だからいいだろう。重要なのは、少しずつではあるけど、グレードが上がっているということだ。人生の山登りが、ようやくこの高さまできた、そんな感覚だ。当然、高ければ高いほど、眺めはいい。

とはいえ、振り返ってみれば、どの部屋にも思い出はある。中でも1番思い入れが強いのは、やっぱりはじめて暮らしたアパートだろう。高校を出てすぐに借りた、家賃1万7千円の5畳一間の部屋だ。場所は札幌市近郊の学生街で、その家賃が物語るようにボロアパートだった。だけどはじめての自分の城だったから、とても気に入っていた。洗面場を兼ねた流し台とトイレがつくだけの小さな城。風呂は共同で、同じ敷地内に住む大家さんが、月水金に風呂をわかしてくれていた。風呂は週3回だけどシャワーは24時間自由に使えて、そこに置いてあった洗濯機も自由に使えた。それと建物の脇の一角にピンク電話があり、それも共同で使えた(説明する必要もないが当時は携帯電話などなかったし、そんなものが発明されるなんて誰一人想像もしていなかった)。 10円玉を入れればかけることができたが、たいていの人は、こちらからかけて電話番号を伝えて、その場で折り返しを待つ、そんなふうに利用していた。

そんな部屋から、ぼくの社会人(といっても定職に就いていたわけではないが)生活ははじまった。ここから成り上がってやるぜ、と鼻息も荒かった。そう、成り上がり。当時ぼくら落ちこぼれのバイブルだった矢沢永吉の著作「成り上がり」を読み、それにならってぼくも実家を出ようと思ったのだ。永ちゃんが夜汽車に乗って上京したように(実際に降り立ったのは横浜らしい)、ぼくは鈍行列車と連絡船を乗り継ぎ、札幌に出た。札幌にしたのは、実家がある千葉から東京じゃ近すぎるし、かといって関西にいくのは気が乗らなかった(関西出身の方ごめんなさい)し、じゃあ北海道にしようってことで、札幌に決めたのだった。

部屋は現地についてからさがした。学生街だから、近くの大学の掲示板に下宿先がいくつも貼り出してあって、ぼくは学生じゃなかったけど、そこから手頃な物件を見つけ出して直接たずねた。部屋は空いていたから、その場ですぐに決まった。今思うと、いくら昭和の時代の話とはいえ、よくも未成年のぼくに簡単に部屋を貸してくれたなあと思う。まあそんな感じに部屋は見つかり、社会人生活の一歩目を踏み出した。

あれから30年以上の時が経つ。

いろいろあったが、人生の山も、どうにかここまで登ってこられた。そこそこいい眺めだ。永ちゃんのようには成り上がれなかったけれど、それなりに充実した山登りではあったと思う。

もちろん、まだ登りきってはいない。

この新しい部屋が終の住処になるか、あるいはさらに上等な住居へと成り上がるのか、まだまだ人生の山登りはまだまだつづいてくのだ。



 
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