9月のあるオフの日、神宮球場に野球を観にいった。スワローズ対タイガースのナイトゲームだ。
とくにどちらのチームを贔屓にしているわけでもなく、またシーズンをとおしてプロ野球に興味を注いでいるわけでもないのだが、何の予定もないオフの1日、夜空の下でゲームを観戦しながらビールを飲むのもわるくないと思ったのだ。
夕方5時すぎに球場に到着し、ゲートを抜けると、スタジアム特有のまばゆい光景が一気に目に飛びこんだ。広大なグラウンドをぐるりと囲むスタンドは、すでに多くの観客で埋まっている。そのざわめきが耳に心地よかった。ぼくはこみ上げる笑いをかみ殺しながら指定の席についた。
空はまだだいぶ明るい。これから少しずつ夜が近づいてきて、ゲームがはじまる頃(夏だとゲームの途中)、グラウンドはいつしかカクテル光線の中の劇場になる。ドーム球場にはない、昔ながらの屋根なし球場だけが持つ感覚だ。
ゲームは初回、タイガースの先頭打者ホームランで口火が切られた。ぼくが座る席は3塁側(ビジター席)だから、タイガースファンが多い。わっと歓声が上がった。
ぼくはビールを飲みながら、ぼんやりとゲームを観ていた。どちらが勝ってもいいと思いながら観るスポーツの試合は正直いえば退屈だったが、それでも日常を離れたこの感覚は最高だ。ビールのほろ酔いも手助けしてくれていたのかもしれない。
いい感じだなあ、と心の中でつぶやきながら、ぼくは進んでいくゲームを眺めた。ときどきその目を、ほぼ満席に埋まったスタンドに向ける。かわらない風景がここにある。どんなに時代がかわっても、スタジアムのこの感じ、このでっかい風景はずっと同じだ。
神宮球場か……
ぼくはゲームを見つめながら、遠い昔を思い出していた。小学5年生の夏休み。江川卓が鳴り物入りでジャイアンツに入団した、あの年だ。その頃のぼくは野球少年だった。ぼくだけじゃない。あの頃は子どもたちのほとんどが野球少年だったのだ。放課後になれば空き地に集まって日が暮れるまで野球をしたし、家に帰ればジャイアンツ戦のナイター中継に熱中した。当時はぼくもやっぱりジャイアンツのファンで、いつかスタジアムで生の野球が観たいと、心の底から夢見ていた。
その夢がかなう日がきた。
夏休みのある日の夕方、同じクラスの友達がぼくの家を訪ねてきた。スーちゃんという、5年生にしては大柄な少年だった。4月のクラス替えではじめて同じクラスになり、席替えで同じ班になって、それで仲良くなった、そんな間柄だ。
スーちゃんは酒屋の息子で、店でヤクルトの飲み物を扱っているため、ときどき神宮球場のチケットをもらえるのだと以前から口にしていた。そのチケットはしかし、たいていお得意様にあげてしまうから、一度も生の野球観戦はしたことがないという。そのチケットが、どうやら手に入ったらしいのだった。で、急いでぼくの家を訪ねてきたのだそうだ。
「チケット、2枚あんの?」
「ある。父ちゃんが友達といってこいって。巨人戦だぜ」
「ホントかよ? すげえじゃんか!」
「明日のナイター、いくか?」
「いくよ、決まってんじゃん!」
父と母に許しを得て、ぼくたち2人は神宮球場をめざした。東武野田線鎌ヶ谷駅から総武線信濃町駅まで、歩きを入れて1時間半の旅、小学5年生のぼくたちにとって、それは大冒険だった。しかも行き先が神宮球場のジャイアンツ対スワローズのナイターなのだ。まさに宝島に向かう気分で、ぼくたちは興奮しっぱなしだった。
神宮球場につき、もぎりのお兄ちゃんにチケットを見せ、ぼくたちは駆け足でスタンドに向かった。階段を上っていき、ゲートを抜けると、ぼくたちはそこで足をとめた。
「うわあ、でっけえ……」
一気に広がった球場のでっかさが、ぼくたちを打ちのめした。生まれてこの方、こんなにもでっかい風景を見たことは一度もなかった。父方の田舎である石川県能登半島で見た日本海もでっかかったけど、それの何百倍も大きく感じた。これが本物のプロ野球なのかと、ぼくはこみ上げる喜びをどうすることもできなかった。
「おい、すげえな」
「うん、すげえ」
「席はあっちだぜ」
「うん。いこう」
ぼくたちの席は3塁側の内野席で、サードとレフトの中間、ジャイアンツの選手でいえば、高田と張本の間くらいの位置だった。ぼくたちはすっかり興奮して守備練習中の選手たちの名前を大声で叫び、試合がはじまる前から声をからす始末だった。
ジャイアンツの先発は西本で、スワローズはエースの松岡がマウンドに上がった。先頭打者の柴田がすかさずヒットで出塁すると、スタンドは盛り上がり、盗塁を期待する声援が鳴り響いた。2番打者の高田が粘る間に盗塁を決め、3番の張本、そして4番の王へと打線はつながった。
「打て〜、打て〜」
「王、かっ飛ばせ〜」
試合は終始ジャイアンツのペースで進んだ。派手なホームランは出なかったけど、ヒットの積み重ねでスワローズを引きはなしていった。とくに高田の活躍がすごくて、高田の大ファンであるスーちゃん大喜びだった。ぼくが好きなショートの河埜和正はヒットは打てなかったものの、守備で何度もピンチをすくった。ものすごいライナーをジャンプして捕ったときは、得点が入ったときと同じくらいスタンドがわいた。
終盤にちょっとしたピンチを迎えると、90番をつけた長嶋監督が出てきてマウンドに向かった。
「ピッチャー交代かな?」
「そうかも。新浦かな?」
「新浦だよ、たぶん」
「新浦〜! 新浦〜!」
「長嶋さ〜ん、新浦出して〜」
するとウグイス嬢の選手交代を知らせる声がスタンドに響いた。
ジャイアンツノセンシュノコウタイヲオシラセシマス。ピッチャー、ニシモトニカワリマシテ、ニウラ。ピッチャー、ニウラ。セバンゴウ、ニジュウハチ……
「やったあ、新浦だあっ!」
「おれたちの声が聞こえたんだあっ!」
当時サウスポーの新浦は先発にリリーフに大車輪のピッチャーで、ぼくたち2人の共通のヒーローだった。その新浦がマウンドに上がり、ぼくたちの興奮はもはやとどまることはなかった。
新浦の火消しもあって、ジャイアンツは見事に勝利した。試合が終わるとぼくたちはフェンスの近くまで走り、ダッグアウトに帰っていく選手たち一人ひとりに大声で呼びかけた。何人かの選手が手を振ってくれて、ぼくたちは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
帰りの電車でも、ぼくたちはずっとしゃべっていた。新浦の球のスピードのこと、高田のヒットのこと、河埜のファインプレー、柴田の盗塁、シピンのライオンみたいな髪型、そしてホームランこそ打てなかったものの、やはりカッコよかった一本足打法の王選手。どれだけしゃべっても物足りなかったが、やがてぼくたちが住む町の最寄り駅につき、暗くなった道を歩いて、さよならした。
「じゃあな」
「うん。バイバイ」
「またな」
「うん。また」
最高の1日は終わったけど、夏休みはまだまだたっぷりと残っていた。ぼくとスーちゃんはその後も可能なかぎり遊んだ。キャッチボールをしたり、虫取りにいったり、ザリガニ釣りをしたり、その年はやりはじめたインベーダーゲームをさがして遠い街へと自転車を走らせたり。
振り返ってみれば、そんなふうに友達と2人きりですごす夏休みはそのときがはじめてだったように思う。子どもの頃の遊びは、たいてい仲のいい大勢で遊ぶもので、親たちからも、仲間はずれは駄目よ、などといわれたものだった。だから特定の子と2人だけで遊ぶなんて、ほとんどしたことがなかった。
そうだ、スーちゃんはぼくにとって生まれてはじめての親友だったのだ。
夏休みが終わっても、ぼくらはほとんど毎日一緒にいた。もちろん、他の友達も一緒のときもあったけど、その中にいても2人が特別な結びつきでいる感覚はなんとなくあった。これからもずっと友達だと思っていた。このまま冬になっても、6年生になっても、中学生になっても、ずっとずっと友達でいるのだと、そう信じていた。
だけど、その友情は長くはつづかなかった。11月の終わりに、父親の都合で、ぼくが千葉市の学校に転校することになったのだ。
「遊びにこいよ」
「うん。いくよ」
「手紙も書けよな」
「うん。書く」
じゃあな、と大きく手を振り、ぼくたちはさよならした。じゃぁな。またな。必ずまた会って、野球やろうな……
転校先の学校に野球チームはなく、かわりにサッカーのクラブがあった。サッカーなんてやったことがないし、興味もわかなかったが、運動ができそうだという理由で半ば強制的に入部させられた。練習はきつく、おまけに朝練、放課後練が休みなくあり、ぼくの生活は一気にサッカー一色となった。
流されるままにはじめたサッカーだったが、しだいにおもしろくなり、率先してうまくなろうと練習にも熱を入れるようになった。新しい仲間とも徐々に親しさが増していき、前の学校のことを思い出すことも減っていった。野球も観なくなった。すっかり興味がなくなってしまったのだ。
スーちゃんのことも、あまり思い出さなくなっていた。会いたいとは思ったけど、子どもの身分ではそうそう会いにいけるはずもなかった。電車賃もこづかいだけでは足りなかったし、そもそもサッカーの練習で忙しくて会いにいく時間がなかった。
やがて中学生になり、新たな仲間も増えた。さらに高校生になり、また新しい生活がはじまると、もはや小学生の頃のことなど思い出にすぎなくなった。スーちゃんことも、忘れはしないものの遠い存在になった。
そうやって月日は流れ、さらに信じられないくらいの年月が流れて、ぼくは50をすぎたおっさんになった。おっさんになり、休みの日にこうして野球を観ながら、ビールを飲んでいる。
スーちゃんはどうなったんだろう。
あれから何をして、どのような学生生活をすごし、どんなふうに成長していったのだろう。どんな友達と、どんな思い出をつくり、どんな経験を重ねていったのだろう。何を思い、何を大切にして、どのように生きていったのか。仕事は何をしているのだろう。家庭は持ったのか。どんな大人になっているのだろう。すっかりかわってしまったか。それともあの頃とかわらないスーちゃんのままだろうか。
そしてときどきは、昔のことを思い出すこともあるだろうか。
ぼくのことは……、ぼくのことを思い出すことはあるだろうか。
あの夏、カクテル光線に包まれた神宮球場で、ありったけの声で選手たちに声援を送ったあの日のことを、ほんのたまにでも思い出すことはあるだろうか。
今のぼくのように。
スーちゃん、おれはあの頃と何もかわっていないよ。もちろん、もう野球はやっていないし、サッカーだってやってない。観ることすらしない。そういうものとは無縁のおっさんだよ。
だけどおれは何もかわっちゃいない。あの頃と1ミリだってかわっていない。野球がサッカーにかわって、その後もいろんなことに夢中になって、そうやってずっと何かに熱中しながらここまできた。今は仕事だ。料理人という、おでん屋の親父という、たいして儲からないその仕事が好きなんだ。あの頃と同じだよ。野球少年だったあの頃と同じままだよ。
会いたいなあ、と思う。ぼくの店は市川市にあって、当時ぼくたちがすごした鎌ヶ谷からそう遠くない。何度か車や自転車でいったことはある。スーちゃんの家はまだそこにあったが、昔とちがって酒屋ではなくなっていた。だからたずねる口実もなく、いつもとおりすぎるだけだった。
だけどきっと、いつか会えると思っている。
神様のいたずらで、スーちゃんがなんの気なしに入る居酒屋が、ぼくの店であるとか…‥
じゅうぶんあり得ることだ。
ぼくたちの出会いだって、たまたまクラスが一緒になり、たまたま班が一緒になった。たったそれだけではじまったのだから。神様のいたずらから、ぼくたちの友情ははじまったんだ……
試合が終わった。4対1でタイガースが勝った。ぼくは立ち上がり、人の波にまぎれて球場をあとにした。信濃町駅から、自宅のある駅まで列車に揺られる。オフの1日が終わっていく。明日からまた仕事だ。憂鬱だなあ、とは思わない。あの頃と同じ、グローブとバットを持って空き地に向かったあの頃と同じ気持ちで、ぼくは店に入る。これからもずっと、ずっとかわらない、ぼくは永遠に野球少年のままだ。
当店のホームページはこちらから
とくにどちらのチームを贔屓にしているわけでもなく、またシーズンをとおしてプロ野球に興味を注いでいるわけでもないのだが、何の予定もないオフの1日、夜空の下でゲームを観戦しながらビールを飲むのもわるくないと思ったのだ。
夕方5時すぎに球場に到着し、ゲートを抜けると、スタジアム特有のまばゆい光景が一気に目に飛びこんだ。広大なグラウンドをぐるりと囲むスタンドは、すでに多くの観客で埋まっている。そのざわめきが耳に心地よかった。ぼくはこみ上げる笑いをかみ殺しながら指定の席についた。
空はまだだいぶ明るい。これから少しずつ夜が近づいてきて、ゲームがはじまる頃(夏だとゲームの途中)、グラウンドはいつしかカクテル光線の中の劇場になる。ドーム球場にはない、昔ながらの屋根なし球場だけが持つ感覚だ。
ゲームは初回、タイガースの先頭打者ホームランで口火が切られた。ぼくが座る席は3塁側(ビジター席)だから、タイガースファンが多い。わっと歓声が上がった。
ぼくはビールを飲みながら、ぼんやりとゲームを観ていた。どちらが勝ってもいいと思いながら観るスポーツの試合は正直いえば退屈だったが、それでも日常を離れたこの感覚は最高だ。ビールのほろ酔いも手助けしてくれていたのかもしれない。
いい感じだなあ、と心の中でつぶやきながら、ぼくは進んでいくゲームを眺めた。ときどきその目を、ほぼ満席に埋まったスタンドに向ける。かわらない風景がここにある。どんなに時代がかわっても、スタジアムのこの感じ、このでっかい風景はずっと同じだ。
神宮球場か……
ぼくはゲームを見つめながら、遠い昔を思い出していた。小学5年生の夏休み。江川卓が鳴り物入りでジャイアンツに入団した、あの年だ。その頃のぼくは野球少年だった。ぼくだけじゃない。あの頃は子どもたちのほとんどが野球少年だったのだ。放課後になれば空き地に集まって日が暮れるまで野球をしたし、家に帰ればジャイアンツ戦のナイター中継に熱中した。当時はぼくもやっぱりジャイアンツのファンで、いつかスタジアムで生の野球が観たいと、心の底から夢見ていた。
その夢がかなう日がきた。
夏休みのある日の夕方、同じクラスの友達がぼくの家を訪ねてきた。スーちゃんという、5年生にしては大柄な少年だった。4月のクラス替えではじめて同じクラスになり、席替えで同じ班になって、それで仲良くなった、そんな間柄だ。
スーちゃんは酒屋の息子で、店でヤクルトの飲み物を扱っているため、ときどき神宮球場のチケットをもらえるのだと以前から口にしていた。そのチケットはしかし、たいていお得意様にあげてしまうから、一度も生の野球観戦はしたことがないという。そのチケットが、どうやら手に入ったらしいのだった。で、急いでぼくの家を訪ねてきたのだそうだ。
「チケット、2枚あんの?」
「ある。父ちゃんが友達といってこいって。巨人戦だぜ」
「ホントかよ? すげえじゃんか!」
「明日のナイター、いくか?」
「いくよ、決まってんじゃん!」
父と母に許しを得て、ぼくたち2人は神宮球場をめざした。東武野田線鎌ヶ谷駅から総武線信濃町駅まで、歩きを入れて1時間半の旅、小学5年生のぼくたちにとって、それは大冒険だった。しかも行き先が神宮球場のジャイアンツ対スワローズのナイターなのだ。まさに宝島に向かう気分で、ぼくたちは興奮しっぱなしだった。
神宮球場につき、もぎりのお兄ちゃんにチケットを見せ、ぼくたちは駆け足でスタンドに向かった。階段を上っていき、ゲートを抜けると、ぼくたちはそこで足をとめた。
「うわあ、でっけえ……」
一気に広がった球場のでっかさが、ぼくたちを打ちのめした。生まれてこの方、こんなにもでっかい風景を見たことは一度もなかった。父方の田舎である石川県能登半島で見た日本海もでっかかったけど、それの何百倍も大きく感じた。これが本物のプロ野球なのかと、ぼくはこみ上げる喜びをどうすることもできなかった。
「おい、すげえな」
「うん、すげえ」
「席はあっちだぜ」
「うん。いこう」
ぼくたちの席は3塁側の内野席で、サードとレフトの中間、ジャイアンツの選手でいえば、高田と張本の間くらいの位置だった。ぼくたちはすっかり興奮して守備練習中の選手たちの名前を大声で叫び、試合がはじまる前から声をからす始末だった。
ジャイアンツの先発は西本で、スワローズはエースの松岡がマウンドに上がった。先頭打者の柴田がすかさずヒットで出塁すると、スタンドは盛り上がり、盗塁を期待する声援が鳴り響いた。2番打者の高田が粘る間に盗塁を決め、3番の張本、そして4番の王へと打線はつながった。
「打て〜、打て〜」
「王、かっ飛ばせ〜」
試合は終始ジャイアンツのペースで進んだ。派手なホームランは出なかったけど、ヒットの積み重ねでスワローズを引きはなしていった。とくに高田の活躍がすごくて、高田の大ファンであるスーちゃん大喜びだった。ぼくが好きなショートの河埜和正はヒットは打てなかったものの、守備で何度もピンチをすくった。ものすごいライナーをジャンプして捕ったときは、得点が入ったときと同じくらいスタンドがわいた。
終盤にちょっとしたピンチを迎えると、90番をつけた長嶋監督が出てきてマウンドに向かった。
「ピッチャー交代かな?」
「そうかも。新浦かな?」
「新浦だよ、たぶん」
「新浦〜! 新浦〜!」
「長嶋さ〜ん、新浦出して〜」
するとウグイス嬢の選手交代を知らせる声がスタンドに響いた。
ジャイアンツノセンシュノコウタイヲオシラセシマス。ピッチャー、ニシモトニカワリマシテ、ニウラ。ピッチャー、ニウラ。セバンゴウ、ニジュウハチ……
「やったあ、新浦だあっ!」
「おれたちの声が聞こえたんだあっ!」
当時サウスポーの新浦は先発にリリーフに大車輪のピッチャーで、ぼくたち2人の共通のヒーローだった。その新浦がマウンドに上がり、ぼくたちの興奮はもはやとどまることはなかった。
新浦の火消しもあって、ジャイアンツは見事に勝利した。試合が終わるとぼくたちはフェンスの近くまで走り、ダッグアウトに帰っていく選手たち一人ひとりに大声で呼びかけた。何人かの選手が手を振ってくれて、ぼくたちは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
帰りの電車でも、ぼくたちはずっとしゃべっていた。新浦の球のスピードのこと、高田のヒットのこと、河埜のファインプレー、柴田の盗塁、シピンのライオンみたいな髪型、そしてホームランこそ打てなかったものの、やはりカッコよかった一本足打法の王選手。どれだけしゃべっても物足りなかったが、やがてぼくたちが住む町の最寄り駅につき、暗くなった道を歩いて、さよならした。
「じゃあな」
「うん。バイバイ」
「またな」
「うん。また」
最高の1日は終わったけど、夏休みはまだまだたっぷりと残っていた。ぼくとスーちゃんはその後も可能なかぎり遊んだ。キャッチボールをしたり、虫取りにいったり、ザリガニ釣りをしたり、その年はやりはじめたインベーダーゲームをさがして遠い街へと自転車を走らせたり。
振り返ってみれば、そんなふうに友達と2人きりですごす夏休みはそのときがはじめてだったように思う。子どもの頃の遊びは、たいてい仲のいい大勢で遊ぶもので、親たちからも、仲間はずれは駄目よ、などといわれたものだった。だから特定の子と2人だけで遊ぶなんて、ほとんどしたことがなかった。
そうだ、スーちゃんはぼくにとって生まれてはじめての親友だったのだ。
夏休みが終わっても、ぼくらはほとんど毎日一緒にいた。もちろん、他の友達も一緒のときもあったけど、その中にいても2人が特別な結びつきでいる感覚はなんとなくあった。これからもずっと友達だと思っていた。このまま冬になっても、6年生になっても、中学生になっても、ずっとずっと友達でいるのだと、そう信じていた。
だけど、その友情は長くはつづかなかった。11月の終わりに、父親の都合で、ぼくが千葉市の学校に転校することになったのだ。
「遊びにこいよ」
「うん。いくよ」
「手紙も書けよな」
「うん。書く」
じゃあな、と大きく手を振り、ぼくたちはさよならした。じゃぁな。またな。必ずまた会って、野球やろうな……
転校先の学校に野球チームはなく、かわりにサッカーのクラブがあった。サッカーなんてやったことがないし、興味もわかなかったが、運動ができそうだという理由で半ば強制的に入部させられた。練習はきつく、おまけに朝練、放課後練が休みなくあり、ぼくの生活は一気にサッカー一色となった。
流されるままにはじめたサッカーだったが、しだいにおもしろくなり、率先してうまくなろうと練習にも熱を入れるようになった。新しい仲間とも徐々に親しさが増していき、前の学校のことを思い出すことも減っていった。野球も観なくなった。すっかり興味がなくなってしまったのだ。
スーちゃんのことも、あまり思い出さなくなっていた。会いたいとは思ったけど、子どもの身分ではそうそう会いにいけるはずもなかった。電車賃もこづかいだけでは足りなかったし、そもそもサッカーの練習で忙しくて会いにいく時間がなかった。
やがて中学生になり、新たな仲間も増えた。さらに高校生になり、また新しい生活がはじまると、もはや小学生の頃のことなど思い出にすぎなくなった。スーちゃんことも、忘れはしないものの遠い存在になった。
そうやって月日は流れ、さらに信じられないくらいの年月が流れて、ぼくは50をすぎたおっさんになった。おっさんになり、休みの日にこうして野球を観ながら、ビールを飲んでいる。
スーちゃんはどうなったんだろう。
あれから何をして、どのような学生生活をすごし、どんなふうに成長していったのだろう。どんな友達と、どんな思い出をつくり、どんな経験を重ねていったのだろう。何を思い、何を大切にして、どのように生きていったのか。仕事は何をしているのだろう。家庭は持ったのか。どんな大人になっているのだろう。すっかりかわってしまったか。それともあの頃とかわらないスーちゃんのままだろうか。
そしてときどきは、昔のことを思い出すこともあるだろうか。
ぼくのことは……、ぼくのことを思い出すことはあるだろうか。
あの夏、カクテル光線に包まれた神宮球場で、ありったけの声で選手たちに声援を送ったあの日のことを、ほんのたまにでも思い出すことはあるだろうか。
今のぼくのように。
スーちゃん、おれはあの頃と何もかわっていないよ。もちろん、もう野球はやっていないし、サッカーだってやってない。観ることすらしない。そういうものとは無縁のおっさんだよ。
だけどおれは何もかわっちゃいない。あの頃と1ミリだってかわっていない。野球がサッカーにかわって、その後もいろんなことに夢中になって、そうやってずっと何かに熱中しながらここまできた。今は仕事だ。料理人という、おでん屋の親父という、たいして儲からないその仕事が好きなんだ。あの頃と同じだよ。野球少年だったあの頃と同じままだよ。
会いたいなあ、と思う。ぼくの店は市川市にあって、当時ぼくたちがすごした鎌ヶ谷からそう遠くない。何度か車や自転車でいったことはある。スーちゃんの家はまだそこにあったが、昔とちがって酒屋ではなくなっていた。だからたずねる口実もなく、いつもとおりすぎるだけだった。
だけどきっと、いつか会えると思っている。
神様のいたずらで、スーちゃんがなんの気なしに入る居酒屋が、ぼくの店であるとか…‥
じゅうぶんあり得ることだ。
ぼくたちの出会いだって、たまたまクラスが一緒になり、たまたま班が一緒になった。たったそれだけではじまったのだから。神様のいたずらから、ぼくたちの友情ははじまったんだ……
試合が終わった。4対1でタイガースが勝った。ぼくは立ち上がり、人の波にまぎれて球場をあとにした。信濃町駅から、自宅のある駅まで列車に揺られる。オフの1日が終わっていく。明日からまた仕事だ。憂鬱だなあ、とは思わない。あの頃と同じ、グローブとバットを持って空き地に向かったあの頃と同じ気持ちで、ぼくは店に入る。これからもずっと、ずっとかわらない、ぼくは永遠に野球少年のままだ。
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10年前の9月28日、市川市内にあるおでん屋で、ぼくは料理人としての第一歩を踏み出した。
その店は、東京の日本橋の老舗のおでん屋で長年店長を務めていた人が出した店で、その時点ではオープンして1年半とまだ新しかった。
働ける店をさがしているときにたまたまその店をみつけ、そしてその店がたまたま従業員を募集していた。こいつは神様のお導きだと興奮しながら、貼り紙に書いてあった電話番号をメモし、少し離れた場所からかけた。自分の年齢(すでに40を超えていた)とほとんど未経験(20歳前後の頃に2年ほど飲食業に従事したがだいぶ昔なのでふせておいた)だということを告げ、後日面接にこぎつけた。
当日、ぼくはスーツにネクタイという出立ちで面接に挑んだ。たかだか居酒屋のアルバイトの面接にはおおげさかなとも思ったが、こっちは修業のつもりだし、それにけじめは大切だ。
ガチガチに緊張しつつも、自分はこの歳で未経験だけれど、何だってやるし、どんなにきつくても大丈夫です、この仕事をおぼえて、将来こんな店をやりたいんです、と思いのたけをぶつけた。
1週間後に連絡する、といわれ、面接は終わった。ぼくはガチガチの緊張のまま、よろしくお願いします、この店で働きたいです、と二等兵みたいに勢いよく頭を下げ、店を辞した。ここで働きたいと本気で思った。ここしかないと強く思った。やってやるぜと採用される前からすでに心が燃えていた。大丈夫だ、必ず採用される。年齢や経験値を考えると不安なるが、おでん屋といえば○△(店名)といわれる店が通勤可能な場所にあり、そこがたまたまこのタイミングで従業員を募集していたのだ。これが神の導きでなくて何だというのか。
だが1週間がすぎても連絡はなかった。あきらめきれずに連絡を待ちつづけたが、その翌日も、そのまた翌日も電話はこなかった。
やっぱり年齢がいきすぎていたか……
店主が60歳を超えたくらいの人だったから大丈夫かなと思っていたが、やはり40すぎで未経験だと店としてはマイナスにしかならないと判断されたのだろう。
面接から2週間、あきらめて次の店をさがそうと思いはじめた頃、電話がきた。とりあえず10日間ほど試用期間として、次の金曜からこれるかというものだった。
その金曜日が2012年9月28日で、ぼくのキャリアのスタートとなった。
持ち場はおでん鍋の前。つまりカウンターがぼくのポジションだった。客を迎え、注文を訊き、ドリンクをつくり、おでんを皿に盛って出す。一品料理のオーダーを受けたら裏の厨房の店長にとおす。お会計とお見送りもぼくの仕事だ。
華々しいデビューではなかった。ほろ苦デビューともいえなかった。泣きたいくらいに散々なスタートだった。毎日毎日ドジばかりで、終始叱られっぱなし。だけどこっちとしても何をどう動けばいいのかわからないから対処のしようがないのだ。それでも客は容赦なくやってくる。注文も怒涛のように飛んでくる。やったことのないスポーツの試合にいきなり出場させられたような感じだった。
何日経ってもその状態はつづいた。その間ぼくは思うように動けないまま、ただただ、はい、はい、すみません、を繰り返すばかりだった。とにかくガチガチなのだ。客には笑顔を見せろと店長はいうが、とてもじゃないけどそんな余裕はなかった。
そしてある日の営業の終わり頃、改まった口調で店長に呼ばれた。その真剣な顔つきを見て、ぼくはクビを覚悟した。
「もっと自信を持て」
「はい……」
「おまえが新人だとか、そんなのはお客さんには関係ないんだからな」
「はい……」
「いいんだ、自信持って。大丈夫だから」
「……」
「大丈夫だって。入って数日でそこまでできてるんだから。上出来だから」
「……!」
「おれはな、おまえの真面目なところを買ってんだ。真面目ってのは、一番の武器なんだ」
「……」
「心配すんな。おれはおまえが根を上げないかぎりはやめさせたりしないから。そのかわりもっと自信を持て。堂々としてろ。今みたいにガチガチだとお客さんが不安になるからな」
その言葉が魔法となって、その後は思い切って仕事ができた。もちろん完璧にこなせるようになったわけではないけど、ひとつ、またひとつと仕事を覚えていくたびぼくは自由になった。まわりが見えるようになっていった。
そうだ、真面目は一番の武器なんだ……。
その言葉をお守りに、ぼくは一生懸命やった。とにかく全力で仕事した。それがぼくを捨てずにいてくれた店長に対する恩義だと思った。
だいぶ後に聞いた話だが、その頃、店の常連客や店長の家族(奥さんと娘さんがたまに手伝いにきていた)はみんな口をそろえてぼくをやめさせた方がいいといっていたらしい。居酒屋みたいな酒飲み相手の仕事は、ああいうクソ真面目なやつには務まるはずがない、と。
店長だけがちがったのだ。店長だけが、どんな仕事だろうが真面目なやつが最後には物になるんだといい、ぼくを雇いつづけると決めてくれたのだ。
あれから10年が経ち、自分の店を持った今でも、あのとき店長にもらった言葉、真面目が一番の武器だというあの言葉は、お守りとしてぼくの胸の中にある。
ぶっちゃけていえば、ぼくの店なんだから、サボろうと思えばいつだってサボれるのだ。お客さんがこない日は早じまいして、何なら常連さんと飲みに出かけたって文句はいわれないのだ。営業中、酒を飲みながら仕事したってかまわないのだ。現にそうした店は腐るほどある。だけどぼくはそうはしない。どんなに閑古鳥が鳴こうと1分たりとも早じまいはしないし、お客さんにすすめられても営業中は酒は飲まない。居酒屋なんだから、不真面目にやっていいなんてことは絶対にないのだ。居酒屋だからこそ、酒飲み相手の仕事だからこそ、むしろ真面目にやらなきゃ駄目なんだとぼくは思う。ちょっとした気のゆるみで、店は朽ちていくのだから。
真面目にやっていこう。コツコツと、愚直に。
ぼくにはそれしか武器がないのだから。
当店のホームページはこちらから
その店は、東京の日本橋の老舗のおでん屋で長年店長を務めていた人が出した店で、その時点ではオープンして1年半とまだ新しかった。
働ける店をさがしているときにたまたまその店をみつけ、そしてその店がたまたま従業員を募集していた。こいつは神様のお導きだと興奮しながら、貼り紙に書いてあった電話番号をメモし、少し離れた場所からかけた。自分の年齢(すでに40を超えていた)とほとんど未経験(20歳前後の頃に2年ほど飲食業に従事したがだいぶ昔なのでふせておいた)だということを告げ、後日面接にこぎつけた。
当日、ぼくはスーツにネクタイという出立ちで面接に挑んだ。たかだか居酒屋のアルバイトの面接にはおおげさかなとも思ったが、こっちは修業のつもりだし、それにけじめは大切だ。
ガチガチに緊張しつつも、自分はこの歳で未経験だけれど、何だってやるし、どんなにきつくても大丈夫です、この仕事をおぼえて、将来こんな店をやりたいんです、と思いのたけをぶつけた。
1週間後に連絡する、といわれ、面接は終わった。ぼくはガチガチの緊張のまま、よろしくお願いします、この店で働きたいです、と二等兵みたいに勢いよく頭を下げ、店を辞した。ここで働きたいと本気で思った。ここしかないと強く思った。やってやるぜと採用される前からすでに心が燃えていた。大丈夫だ、必ず採用される。年齢や経験値を考えると不安なるが、おでん屋といえば○△(店名)といわれる店が通勤可能な場所にあり、そこがたまたまこのタイミングで従業員を募集していたのだ。これが神の導きでなくて何だというのか。
だが1週間がすぎても連絡はなかった。あきらめきれずに連絡を待ちつづけたが、その翌日も、そのまた翌日も電話はこなかった。
やっぱり年齢がいきすぎていたか……
店主が60歳を超えたくらいの人だったから大丈夫かなと思っていたが、やはり40すぎで未経験だと店としてはマイナスにしかならないと判断されたのだろう。
面接から2週間、あきらめて次の店をさがそうと思いはじめた頃、電話がきた。とりあえず10日間ほど試用期間として、次の金曜からこれるかというものだった。
その金曜日が2012年9月28日で、ぼくのキャリアのスタートとなった。
持ち場はおでん鍋の前。つまりカウンターがぼくのポジションだった。客を迎え、注文を訊き、ドリンクをつくり、おでんを皿に盛って出す。一品料理のオーダーを受けたら裏の厨房の店長にとおす。お会計とお見送りもぼくの仕事だ。
華々しいデビューではなかった。ほろ苦デビューともいえなかった。泣きたいくらいに散々なスタートだった。毎日毎日ドジばかりで、終始叱られっぱなし。だけどこっちとしても何をどう動けばいいのかわからないから対処のしようがないのだ。それでも客は容赦なくやってくる。注文も怒涛のように飛んでくる。やったことのないスポーツの試合にいきなり出場させられたような感じだった。
何日経ってもその状態はつづいた。その間ぼくは思うように動けないまま、ただただ、はい、はい、すみません、を繰り返すばかりだった。とにかくガチガチなのだ。客には笑顔を見せろと店長はいうが、とてもじゃないけどそんな余裕はなかった。
そしてある日の営業の終わり頃、改まった口調で店長に呼ばれた。その真剣な顔つきを見て、ぼくはクビを覚悟した。
「もっと自信を持て」
「はい……」
「おまえが新人だとか、そんなのはお客さんには関係ないんだからな」
「はい……」
「いいんだ、自信持って。大丈夫だから」
「……」
「大丈夫だって。入って数日でそこまでできてるんだから。上出来だから」
「……!」
「おれはな、おまえの真面目なところを買ってんだ。真面目ってのは、一番の武器なんだ」
「……」
「心配すんな。おれはおまえが根を上げないかぎりはやめさせたりしないから。そのかわりもっと自信を持て。堂々としてろ。今みたいにガチガチだとお客さんが不安になるからな」
その言葉が魔法となって、その後は思い切って仕事ができた。もちろん完璧にこなせるようになったわけではないけど、ひとつ、またひとつと仕事を覚えていくたびぼくは自由になった。まわりが見えるようになっていった。
そうだ、真面目は一番の武器なんだ……。
その言葉をお守りに、ぼくは一生懸命やった。とにかく全力で仕事した。それがぼくを捨てずにいてくれた店長に対する恩義だと思った。
だいぶ後に聞いた話だが、その頃、店の常連客や店長の家族(奥さんと娘さんがたまに手伝いにきていた)はみんな口をそろえてぼくをやめさせた方がいいといっていたらしい。居酒屋みたいな酒飲み相手の仕事は、ああいうクソ真面目なやつには務まるはずがない、と。
店長だけがちがったのだ。店長だけが、どんな仕事だろうが真面目なやつが最後には物になるんだといい、ぼくを雇いつづけると決めてくれたのだ。
あれから10年が経ち、自分の店を持った今でも、あのとき店長にもらった言葉、真面目が一番の武器だというあの言葉は、お守りとしてぼくの胸の中にある。
ぶっちゃけていえば、ぼくの店なんだから、サボろうと思えばいつだってサボれるのだ。お客さんがこない日は早じまいして、何なら常連さんと飲みに出かけたって文句はいわれないのだ。営業中、酒を飲みながら仕事したってかまわないのだ。現にそうした店は腐るほどある。だけどぼくはそうはしない。どんなに閑古鳥が鳴こうと1分たりとも早じまいはしないし、お客さんにすすめられても営業中は酒は飲まない。居酒屋なんだから、不真面目にやっていいなんてことは絶対にないのだ。居酒屋だからこそ、酒飲み相手の仕事だからこそ、むしろ真面目にやらなきゃ駄目なんだとぼくは思う。ちょっとした気のゆるみで、店は朽ちていくのだから。
真面目にやっていこう。コツコツと、愚直に。
ぼくにはそれしか武器がないのだから。
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先日の定休日、「まちのひブルーマンデープロジェクト」を開催した。
このプロジェクトは、フジテレビ系列で毎週金曜日に放送している酒のツマミになる話を、そのまんまぼくらで集まってやろうという、まあいってみればお遊びだ。毎月第2第4月曜日(今後月一にする予定)、19時半から開催している。※8月は新型コロナウィルス感染拡大のため休止
遊びとはいったが、いちおうは「プロジェクト」だから、当然そこには達成すべき目的がある。
週の初めの月曜、みんなで集まって馬鹿話して、憂鬱を吹き飛ばそう、利害関係のない人同士が対等の立場で、ああでもないこうでもないと大笑いしながらしゃべりまくろう、そうやってみんなで元気になって、ハッビーになって、その収益(酒代から原価を引いた金額)を、WFP(国連世界食糧計画)に寄付しよう、そういうプロジェクトだ。ぼくらの馬鹿話で世界を助けよう、そんなプロジェクトなのだ。
このプロジェクトを立ち上げて3カ月、今まで4回開催した。収益の累計は1万5千円。そのすべてをWFPに寄付した。まだまだ小さい金額だが、つづけていくことによってその金額は大きくなっていくだろう。
で、今回は5回目の開催だ。7人(ぼくを入れて8人)集まった。
今回はさまざまな年代の人が参加してくれた。女性も2人いたから、いろんな角度から話が流れていって、すごく面白かった。
たとえば、仮面ライダーの話になっても、それぞれ好きなライダーは世代によってかわってくる。ぼくらロートルがいうライダーは、V3とかせいぜいストロンガーとかだが、若い人たちの話すライダーはなんだかわかんねえ名前ばかりだった(向こうからすれば我々がいうライダーの方がわからないんだろうけど)。
あとびっくりしたのが、あの不朽の名作「太陽にほえろ」を知らない世代がいるってことだ。冷静に考えたらそりゃそうなのだが、まあびっくりだった。
あとは食べ物なんかも、これは世代に関係なくいろんな意見がぶつかり合って、なかなか白熱した。
まあ、しゃべったしゃべった。そして笑った。おおいに笑った。
で、いつものように酒代をいただいて(この催しは料理の提供はなし。ぼくも飲んで話すので。だから酒代のみ)、お開きとなった。
後片づけして、家路につく。
その途中でセブンイレブンにより、WFP(国連世界食糧計画)に寄付した。今回は4千円だ。この金額で緊急時(紛争や災害など)の避難者2人の1カ月分の食料がまかなえる。ぼくらの馬鹿話が、遠い国の誰かを救うのだ。素敵なことだとぼくは思う。
そして自分たちも元気になれる。
みんな元気になっただろうか。
ぼくはいっぱい元気をもらった。みんなありがとう。
こんな感じでやってるので、興味のある方はぜひ参加してください。参加は自由です。
では、また。
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このプロジェクトは、フジテレビ系列で毎週金曜日に放送している酒のツマミになる話を、そのまんまぼくらで集まってやろうという、まあいってみればお遊びだ。毎月第2第4月曜日(今後月一にする予定)、19時半から開催している。※8月は新型コロナウィルス感染拡大のため休止
遊びとはいったが、いちおうは「プロジェクト」だから、当然そこには達成すべき目的がある。
週の初めの月曜、みんなで集まって馬鹿話して、憂鬱を吹き飛ばそう、利害関係のない人同士が対等の立場で、ああでもないこうでもないと大笑いしながらしゃべりまくろう、そうやってみんなで元気になって、ハッビーになって、その収益(酒代から原価を引いた金額)を、WFP(国連世界食糧計画)に寄付しよう、そういうプロジェクトだ。ぼくらの馬鹿話で世界を助けよう、そんなプロジェクトなのだ。
このプロジェクトを立ち上げて3カ月、今まで4回開催した。収益の累計は1万5千円。そのすべてをWFPに寄付した。まだまだ小さい金額だが、つづけていくことによってその金額は大きくなっていくだろう。
で、今回は5回目の開催だ。7人(ぼくを入れて8人)集まった。
今回はさまざまな年代の人が参加してくれた。女性も2人いたから、いろんな角度から話が流れていって、すごく面白かった。
たとえば、仮面ライダーの話になっても、それぞれ好きなライダーは世代によってかわってくる。ぼくらロートルがいうライダーは、V3とかせいぜいストロンガーとかだが、若い人たちの話すライダーはなんだかわかんねえ名前ばかりだった(向こうからすれば我々がいうライダーの方がわからないんだろうけど)。
あとびっくりしたのが、あの不朽の名作「太陽にほえろ」を知らない世代がいるってことだ。冷静に考えたらそりゃそうなのだが、まあびっくりだった。
あとは食べ物なんかも、これは世代に関係なくいろんな意見がぶつかり合って、なかなか白熱した。
まあ、しゃべったしゃべった。そして笑った。おおいに笑った。
で、いつものように酒代をいただいて(この催しは料理の提供はなし。ぼくも飲んで話すので。だから酒代のみ)、お開きとなった。
後片づけして、家路につく。
その途中でセブンイレブンにより、WFP(国連世界食糧計画)に寄付した。今回は4千円だ。この金額で緊急時(紛争や災害など)の避難者2人の1カ月分の食料がまかなえる。ぼくらの馬鹿話が、遠い国の誰かを救うのだ。素敵なことだとぼくは思う。
そして自分たちも元気になれる。
みんな元気になっただろうか。
ぼくはいっぱい元気をもらった。みんなありがとう。
こんな感じでやってるので、興味のある方はぜひ参加してください。参加は自由です。
では、また。
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