東日本大震災から1年が経った。
この1年間、日本中で「絆」がブームとなった。大ブームだ。
えっ? ブームなんて軽い言葉を使うな、って?
だってブームだろう。ただのブームだ、あんなもん。
絆だ絆だ、って口先ばかりで連呼して、お手軽に涙を流して、それで勝手に完結させちゃってるだけだ。
絆ってのは、本来そんなに軽い言葉じゃないのだ。
絆という言葉を口にする以上は、もっと一人ひとりが痛みを分かち合わなきゃ駄目なのだ。
だのに誰も痛みを分かち合おうとしてないではないか。
震災の復興の特番なんかを観て涙は流すけど、かれら被災者の痛みを引き受けようとはしない。しょせんは他人事なんだ。自分には関係ないと思っている。
被災地のがれきの処理が、全体の5パーセントしか進んでいない、というニュースを聞いても、だから何? そんなの国がどうにかしてよ、俺たちは関係ないよ、という。
俺たちがほしいのは、そんなニュースじゃないのよ、もっと泣けるやつをちょうだいよ。
こんな感じだ。
だから、被災地のがれきの処理を、自分の住む市町村でやるなんて話が出ようものなら大騒ぎだ。ふざけんなっ! 何でうちでやるんだ! 放射能ばらまかれたらどうするんだ! 風評被害を受けたらどうするんだ! 特産物が売れなくなったらどうするんだ! 子どもたちの未来はどうするんだ! ふざけんじゃねえぞ!
マジでたいへんな騒ぎになる。
だけど絆は大事。そのほかにも、がんばろう東北。がんばろう日本。一つになろう日本。そういう言葉は、大好き。ついでに、被災地から届く感動的な話はもっと好き。
この矛盾はなんだろう。
もちろん放射能の問題があるから、たやすく事が運ばないのは理解できる。安全基準値のものだといわれても、万が一がある以上、みんな受け入れに反対してしまうのだろう。
だけどそれって、そんながれきはずっと被災地に置きっぱなしにしとけ、ってことだ。自分は放射能を浴びるのはいやだけど(実際は浴びないものなのに)、被災地の人たちが浴びるのはしょうがない、ってことではないか。
いや、いや、いやっ、反論はさせない。
いってるんだよ、そういうふうに。
だってそうじゃないか。
どの市町村もがれきの受け入れをしないってことは、がれきはずっと被災地に置きっぱなしになるってことなんだから。
自分たちが大丈夫なら、被災地でずっと苦しんでる人がどうなったっていいってことなんだ。あの大震災で想像を絶する悲しみに遭った人たちを、見捨てているんだ。
ああっ? ちがくねえって!
そういうことをいってるんだよ、がれきの受け入れを反対してる人は!
ひところ、「がれきの荒野」という言葉が使われた。あまりいい言葉ではないという意見もあったが、ぼくも実際にこの目で見て、ああ、まさにがれきの荒野だ、と感じた。むごすぎる光景だった。そして、この荒野を元通りの町にするには(完全に元には戻せないけど)、日本中の人々の気持ちが一つにならなきゃ駄目だと思った。みんなが痛みを分かち合わなきゃ、この国の復興は無理だと思った。
国にまかせるだけじゃ駄目だ。一人ひとりが痛みを引きうけていかなきゃ駄目なのだ。
被災した各地の「がれきの荒野」について、どんな感じかとよく人に訊かれる。そんなとき、ぼくはこう答えている。
自分が住む町の、そこにある建物がすべて倒壊して、何もかもが消えて、がれきになったところを想像してください、と。
がれきの引き受けについては、仕方ない部分もあるにはある。さっきもいったが、放射能の問題があるから、簡単ではないだろう。実際に放射能を浴びた危険性のあるがれきもあるのだ。
がれきの受け入れはいやだといってる人たちだって、自分たちが住む町や、自分の家族を思ってのことなのだ。単純に悪者と決めつけるわけにはいかないのかもしれない。
だけど、だけどその人たちは、金輪際、「絆」などとしらじらしい言葉を、被災地の人たちに向けて発してはいけない。
そして、もしも自分たちの町や家が天災で壊滅したとしても、そのがれきは、どうぞ自分自身の力で処分してください。人をたよることは、絶対に許しませんから。
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この1年間、日本中で「絆」がブームとなった。大ブームだ。
えっ? ブームなんて軽い言葉を使うな、って?
だってブームだろう。ただのブームだ、あんなもん。
絆だ絆だ、って口先ばかりで連呼して、お手軽に涙を流して、それで勝手に完結させちゃってるだけだ。
絆ってのは、本来そんなに軽い言葉じゃないのだ。
絆という言葉を口にする以上は、もっと一人ひとりが痛みを分かち合わなきゃ駄目なのだ。
だのに誰も痛みを分かち合おうとしてないではないか。
震災の復興の特番なんかを観て涙は流すけど、かれら被災者の痛みを引き受けようとはしない。しょせんは他人事なんだ。自分には関係ないと思っている。
被災地のがれきの処理が、全体の5パーセントしか進んでいない、というニュースを聞いても、だから何? そんなの国がどうにかしてよ、俺たちは関係ないよ、という。
俺たちがほしいのは、そんなニュースじゃないのよ、もっと泣けるやつをちょうだいよ。
こんな感じだ。
だから、被災地のがれきの処理を、自分の住む市町村でやるなんて話が出ようものなら大騒ぎだ。ふざけんなっ! 何でうちでやるんだ! 放射能ばらまかれたらどうするんだ! 風評被害を受けたらどうするんだ! 特産物が売れなくなったらどうするんだ! 子どもたちの未来はどうするんだ! ふざけんじゃねえぞ!
マジでたいへんな騒ぎになる。
だけど絆は大事。そのほかにも、がんばろう東北。がんばろう日本。一つになろう日本。そういう言葉は、大好き。ついでに、被災地から届く感動的な話はもっと好き。
この矛盾はなんだろう。
もちろん放射能の問題があるから、たやすく事が運ばないのは理解できる。安全基準値のものだといわれても、万が一がある以上、みんな受け入れに反対してしまうのだろう。
だけどそれって、そんながれきはずっと被災地に置きっぱなしにしとけ、ってことだ。自分は放射能を浴びるのはいやだけど(実際は浴びないものなのに)、被災地の人たちが浴びるのはしょうがない、ってことではないか。
いや、いや、いやっ、反論はさせない。
いってるんだよ、そういうふうに。
だってそうじゃないか。
どの市町村もがれきの受け入れをしないってことは、がれきはずっと被災地に置きっぱなしになるってことなんだから。
自分たちが大丈夫なら、被災地でずっと苦しんでる人がどうなったっていいってことなんだ。あの大震災で想像を絶する悲しみに遭った人たちを、見捨てているんだ。
ああっ? ちがくねえって!
そういうことをいってるんだよ、がれきの受け入れを反対してる人は!
ひところ、「がれきの荒野」という言葉が使われた。あまりいい言葉ではないという意見もあったが、ぼくも実際にこの目で見て、ああ、まさにがれきの荒野だ、と感じた。むごすぎる光景だった。そして、この荒野を元通りの町にするには(完全に元には戻せないけど)、日本中の人々の気持ちが一つにならなきゃ駄目だと思った。みんなが痛みを分かち合わなきゃ、この国の復興は無理だと思った。
国にまかせるだけじゃ駄目だ。一人ひとりが痛みを引きうけていかなきゃ駄目なのだ。
被災した各地の「がれきの荒野」について、どんな感じかとよく人に訊かれる。そんなとき、ぼくはこう答えている。
自分が住む町の、そこにある建物がすべて倒壊して、何もかもが消えて、がれきになったところを想像してください、と。
がれきの引き受けについては、仕方ない部分もあるにはある。さっきもいったが、放射能の問題があるから、簡単ではないだろう。実際に放射能を浴びた危険性のあるがれきもあるのだ。
がれきの受け入れはいやだといってる人たちだって、自分たちが住む町や、自分の家族を思ってのことなのだ。単純に悪者と決めつけるわけにはいかないのかもしれない。
だけど、だけどその人たちは、金輪際、「絆」などとしらじらしい言葉を、被災地の人たちに向けて発してはいけない。
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母の日ってのが、ぼくはあまり好きじゃない。
小学生の頃、カーネーション募金ってのがあって、毎年、母の日に小さいカーネーションの造花みたいなのが配られていた。どこかの団体が主催する任意の募金なのだが、ほとんど強制的に買わされるのだ。たしか10円とか20円とか、その程度の額だったが、いやだったのは、母親がいる子は赤いカーネーションで、母親がいない子は白いカーネーションを買わされることだった。
ぼくは母親がいたから赤いカーネーションだったが、クラスの中には1人か2人、必ず白いカーネーションを買う子がいた。その子らのことを思うと、胸が痛んでしかたなかった。どうしてこんな残酷なことをするのだろうかと、子どもながらに思ったものだった。
その気持ちは、大人になった今も、まったくかわっていない。
今でも、母の日は嫌いだ。
だいたい、母の日って必要だろうか?
日頃から感謝していれば、わざわざそんな日を設ける必要などないではないか。街中で、赤いカーネーションやら母の日ギフトやら、何だか知らないけどそんなものを売りまくって、そういうのやるのって、母がいない子の気持ちを考えたうえでのことなのだろうか。
仮に「母の日フェア」みたいなものの期間が一週間くらいあるとして、その間、母親がいない子はずっと肩身が狭い思いをすると思う。
たとえば、仲のいい友達同士で、母の日のプレゼントを買いにいくとする。そのときその子らは、母親のいない子を誘うだろうか。誘うにしても、誘わないにしても、母のいない子に寂しい思いをさせることはまちがいない。
そのために白いカーネーションがある、って意見もあるだろう。もともと母親を亡くした子が、母が好きだった白いカーネーションを亡き母に捧げた、ってのが母の日の起源らしいし。だから本来「母の日」は、母親を亡くした子のためにあるのだ、って、そんな考え方もあるかもしれない。
だけど、やっぱりそうじゃねえだろ、って思う。
一年に一度、母への感謝を表すってのは、もちろんすばらしいことだとは思うけど、それで寂しい思いをする子がいるんだから、やっぱり残酷だ。母を亡くした子のみんながみんな、そう感じるとは限らないけど、たった1人でも肩身が狭い思いをする子がいるなら、母の日なんてなくした方がいい。
少なくとも、バレンタインみたいな行事にすべきではないと、ぼくは思う。
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小学生の頃、カーネーション募金ってのがあって、毎年、母の日に小さいカーネーションの造花みたいなのが配られていた。どこかの団体が主催する任意の募金なのだが、ほとんど強制的に買わされるのだ。たしか10円とか20円とか、その程度の額だったが、いやだったのは、母親がいる子は赤いカーネーションで、母親がいない子は白いカーネーションを買わされることだった。
ぼくは母親がいたから赤いカーネーションだったが、クラスの中には1人か2人、必ず白いカーネーションを買う子がいた。その子らのことを思うと、胸が痛んでしかたなかった。どうしてこんな残酷なことをするのだろうかと、子どもながらに思ったものだった。
その気持ちは、大人になった今も、まったくかわっていない。
今でも、母の日は嫌いだ。
だいたい、母の日って必要だろうか?
日頃から感謝していれば、わざわざそんな日を設ける必要などないではないか。街中で、赤いカーネーションやら母の日ギフトやら、何だか知らないけどそんなものを売りまくって、そういうのやるのって、母がいない子の気持ちを考えたうえでのことなのだろうか。
仮に「母の日フェア」みたいなものの期間が一週間くらいあるとして、その間、母親がいない子はずっと肩身が狭い思いをすると思う。
たとえば、仲のいい友達同士で、母の日のプレゼントを買いにいくとする。そのときその子らは、母親のいない子を誘うだろうか。誘うにしても、誘わないにしても、母のいない子に寂しい思いをさせることはまちがいない。
そのために白いカーネーションがある、って意見もあるだろう。もともと母親を亡くした子が、母が好きだった白いカーネーションを亡き母に捧げた、ってのが母の日の起源らしいし。だから本来「母の日」は、母親を亡くした子のためにあるのだ、って、そんな考え方もあるかもしれない。
だけど、やっぱりそうじゃねえだろ、って思う。
一年に一度、母への感謝を表すってのは、もちろんすばらしいことだとは思うけど、それで寂しい思いをする子がいるんだから、やっぱり残酷だ。母を亡くした子のみんながみんな、そう感じるとは限らないけど、たった1人でも肩身が狭い思いをする子がいるなら、母の日なんてなくした方がいい。
少なくとも、バレンタインみたいな行事にすべきではないと、ぼくは思う。
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大型のスーパーや役場、図書館などにいったりするたび、怒りをおぼえることがある。
障害者用駐車スペースに平気で車をとめる健常者(心は健常ではないね)に対してだ。
こういう感じ
↓
何のための駐車スペースか知っててとめているのだとしたら、そいつは人間のクズだ。また、知らなかったという人は、今すぐその無知をおおいに恥じて、今後はとめないようにつとめてほしい。
何をえらそうに、って思った人もいるかもしれない。
実際、注意したとき、そういわれたことは多々あった。
「あんた何さま?」
とか、
「何でおまえにいわれなきゃいけねえんだ?」
とか。
若い連中だけでなく、社会的立場のあるサラリーマン風の中高年とか、子どもをつれた主婦とか、そういう人も(そういう人の方が多い。若者の方が素直だ)、およそ信じられない口答えをしてきた。
その人たちにとっては、もしかしたら電車などのシルバーシートに座るくらいの感覚なのかもしれない。
空いてるんだからいいじゃん、みたいな。障害者きたらどくしィ、みたいな。
馬鹿だ。すくいようのない馬鹿。
あのスペースはシルバーシートと同じ類のものではないのだ。
シルバーシートというものは、ぼくは必要ないと思っている。シルバーシートなどなくても、すべての人がすべてのいすを障害者や老人、身体の弱い人にゆずればいい。
だけど障害者用駐車スペースはちがう。
あれは、車いすを利用している人が車の乗降ができるよう、スペースが広くなっているのだ。
かれらは、ほかの駐車スペースでは、車の乗降ができないのだ。
さらに、シルバーシートとちがい、障害者用駐車スペースにとめた車(馬鹿な健常者が)は、障害者がきても、どくことができない。持ち主が店(施設)に入っているからだ。
だから、健常者がそのスペースに車をとめてしまったら、車いす利用者および何らかの障害を持った人は、その1人の馬鹿が帰らないかぎり、その店(あるいは施設)に入れないのだ。ずっと満車状態がつづくのだ。その馬鹿が店(施設)にいるかぎり。
そんなことが日本全国で、ほぼ毎日、いや、四六時中起こっているのだ。
それだけ、日本には馬鹿が多いということなのだ!
知らなかったんだからしょうがない?
知らなかった人は、さっきもいったが、その無知をおおいに恥じるべきだ。
きついいい方かもしれないが、学生ならともかく、社会人がこのくらいの常識を知らないのは罪だと思う。それほど、大事なことなのだ!
それに知らなかったというが(実際、注意してそう答える人も多い)、駐車スペースにでかでかと車いすの絵が書いてあるではないか。たとえ知らないにしても、その絵が書いてあるスペースに、何となく自分が駐車してはいけないことくらい想像できないか。
おぼえていてほしい。
障害者はいるのだ。
そしてかれらはぼくらと何らかわらない生活をする権利を持っている。
いたわるとか、ボランティア精神とか、そういうことじゃない。対等に、同じレベルで、差別とか上下とかなく、同じ人間として、一緒に生活できるような社会でなきゃいけないのだ。
そのためのルールを守ろう、といっているのだ。
障害者用駐車スペースだけでなく、イエローブロックの上に物や自転車を置かないとか、駅や歩道橋などのエレベーターに先に乗せてやるとか、そういうことを空気を吸うくらいあたりまえにできる社会にしなくちゃいけないのだ。
だが今のままでは、日本にそんな社会がくる日はないだろう。
だからまず、小学校でこれらのことを教える時間をもうけるべきだと、ぼくは思う。中学校でもいい。
本当は大人たちが生活の中で子どもに教えてやるのが理想なのだが、その大人たちの方がまちがいをおかしているのだから、もはや学校で義務化していただくしかないだろう。
英語なんかの時間をもうける前に、まずは道徳教育だ。
大人たちへの教育は、法律化して罰金をもうけるしかないか。
人間のモラルに頼るのが不可能なのは、注意するたび何度も逆ギレされたぼくには、いやというほどわかっている。
追記
動画を提供してくださった方、動画を使用させていただきました。ありがとうございます。
http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/
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何をえらそうに、って思った人もいるかもしれない。
実際、注意したとき、そういわれたことは多々あった。
「あんた何さま?」
とか、
「何でおまえにいわれなきゃいけねえんだ?」
とか。
若い連中だけでなく、社会的立場のあるサラリーマン風の中高年とか、子どもをつれた主婦とか、そういう人も(そういう人の方が多い。若者の方が素直だ)、およそ信じられない口答えをしてきた。
その人たちにとっては、もしかしたら電車などのシルバーシートに座るくらいの感覚なのかもしれない。
空いてるんだからいいじゃん、みたいな。障害者きたらどくしィ、みたいな。
馬鹿だ。すくいようのない馬鹿。
あのスペースはシルバーシートと同じ類のものではないのだ。
シルバーシートというものは、ぼくは必要ないと思っている。シルバーシートなどなくても、すべての人がすべてのいすを障害者や老人、身体の弱い人にゆずればいい。
だけど障害者用駐車スペースはちがう。
あれは、車いすを利用している人が車の乗降ができるよう、スペースが広くなっているのだ。
かれらは、ほかの駐車スペースでは、車の乗降ができないのだ。
さらに、シルバーシートとちがい、障害者用駐車スペースにとめた車(馬鹿な健常者が)は、障害者がきても、どくことができない。持ち主が店(施設)に入っているからだ。
だから、健常者がそのスペースに車をとめてしまったら、車いす利用者および何らかの障害を持った人は、その1人の馬鹿が帰らないかぎり、その店(あるいは施設)に入れないのだ。ずっと満車状態がつづくのだ。その馬鹿が店(施設)にいるかぎり。
そんなことが日本全国で、ほぼ毎日、いや、四六時中起こっているのだ。
それだけ、日本には馬鹿が多いということなのだ!
知らなかったんだからしょうがない?
知らなかった人は、さっきもいったが、その無知をおおいに恥じるべきだ。
きついいい方かもしれないが、学生ならともかく、社会人がこのくらいの常識を知らないのは罪だと思う。それほど、大事なことなのだ!
それに知らなかったというが(実際、注意してそう答える人も多い)、駐車スペースにでかでかと車いすの絵が書いてあるではないか。たとえ知らないにしても、その絵が書いてあるスペースに、何となく自分が駐車してはいけないことくらい想像できないか。
おぼえていてほしい。
障害者はいるのだ。
そしてかれらはぼくらと何らかわらない生活をする権利を持っている。
いたわるとか、ボランティア精神とか、そういうことじゃない。対等に、同じレベルで、差別とか上下とかなく、同じ人間として、一緒に生活できるような社会でなきゃいけないのだ。
そのためのルールを守ろう、といっているのだ。
障害者用駐車スペースだけでなく、イエローブロックの上に物や自転車を置かないとか、駅や歩道橋などのエレベーターに先に乗せてやるとか、そういうことを空気を吸うくらいあたりまえにできる社会にしなくちゃいけないのだ。
だが今のままでは、日本にそんな社会がくる日はないだろう。
だからまず、小学校でこれらのことを教える時間をもうけるべきだと、ぼくは思う。中学校でもいい。
本当は大人たちが生活の中で子どもに教えてやるのが理想なのだが、その大人たちの方がまちがいをおかしているのだから、もはや学校で義務化していただくしかないだろう。
英語なんかの時間をもうける前に、まずは道徳教育だ。
大人たちへの教育は、法律化して罰金をもうけるしかないか。
人間のモラルに頼るのが不可能なのは、注意するたび何度も逆ギレされたぼくには、いやというほどわかっている。
追記
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