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魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

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東日本大震災発生から8カ月を迎えて思うこと

東日本大震災発生から、今日で8カ月を迎えた。

最近ではメディアも震災関連の話をしなくなり、ほとんどの人々の心の中から東日本大震災が消えかかっているのではないかと思う。むしろ不安なのは原発の方で、震災、あるいは津波によって被害を受けた人たちのことは、もうほとんど人まかせにしているのではないだろうか。

そのことをとがめるつもりはない。誰もがそれぞれの生活を抱えているのだ。震災発生から8カ月が経った今、心の中から「東北のために」のスローガンが消えていくのは無理もないことだ。

岩手県岩泉町に一度、宮城県南三陸町に二度、復興支援ボランティアにいったぼくにしても、現地を訪れなくなってから3カ月がすぎた今、東日本大震災は遠いものとなりつつある。かかわった土地が今現在どのような状況にあるのか、詳しいことはまったくわからないし、積極的に知ろうと努力しているわけでもない。

だけど完全に忘れたわけではない。自分の生活に降りかかる困難の波を乗り越えつつ、震災のこと、被害に逢った人たちのことは、つねに心のどこかにある。機会をつくって、また現地を訪れたいとも思っている。少なくとも、自分がかかわった岩手県岩泉町、宮城県南三陸町へは、もう一度いきたいと思う。

5月にいった岩手県岩泉町の方は、ともに作業した現地の方たちからときどき連絡を受ける。かれらは今は作業から退いていて、自分たちの生活に戻っているとのことだ。勤めていた会社が津波の被害に遭い、働き口を失いつつも、資格取得に向けて職業訓練センターにかよっている若者もいる。そのメールをもらったときは、うれしかった。前向きに生きているかれらを、ホントに応援したいと思う。

だがみんながみんな、普通の生活に戻ったわけではない。

警察庁のまとめによると、死者は計1万5836人。行方不明者は、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉の6県でいまだに3652人に上るというのだ。震災発生から8カ月経った今も、岩手、宮城、福島の3県警で、沿岸部を中心に捜索を続けているのだ。

それだけの被害者がいて、その被害者たちの遺族がいるのだ。8カ月経ったとはいえ、まだまだ震災の復興は、道の途中だ。いや、まだはじまってもいないのかもしれない。

これから冬になる。東北地方の冬は寒い。今でさえもたついている震災復興が、今後ますます滞ることがないよう祈るばかりだ。

ぼく個人も、遠ざかっていた復興支援を復活させたいと思いはじめている。今は仕事が人手不足でなかなか現地にはいけないが(こんな言い訳する自分がいやだが)、何か自分にできることを、またはじめたい。

考えているのは、路上で自作の絵葉書やカレンダーを売って義援金をつくることだ。これは春にもやった。3月、4月、5月にそれぞれ一回ずつフリーマーケットに出店して、自作の詩画を売って義援金にしたのだ。だが今は仕事が人手不足で(またそれかよ)日曜が休めないからフリーマーケットには出店できない。したがって、ホントにホントの「路上」でやることになる。

緊張するけど、本気で考えてみようと思う。

明日土曜は仕事が休みだから、散歩がてら場所さがしにいくつもりだ。

人通りが多くて、警察やヤ〇ザの目の届かないところ。

うまく見つかるといいが。



関連記事  ぜひご覧ください。ぼくの全身画像(ピンボケ)もあります(^_-)
3/28 ほろ苦デビュー~いい街ちばフリーマーケットを終えて
4/25 いい街ちばフリーマーケットを終えて
4/29 千葉県旭市飯岡地区の現状
5/11 東日本大震災復興支援ボランティア~岩手県下閉伊郡岩泉町小本地区へ
7/8 東日本大震災復興支援ボランティア その2~宮城県本吉郡南三陸町へ



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新潟・福島 豪雨復興支援ボランティア~福島県南会津郡只見町へ その3

前回までの話。

その1→http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/blog-entry-478.html
その2→http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/blog-entry-484.html


只見町のボランティアセンターはのスタッフは、満面の笑顔で、ぼくらボランティアを大歓迎してくれた。何度も「ありがとう」といい、遠いところをお疲れさまでしたと頭を下げ、飲み物などをふるまってくれた。マスクや軍手、タオルなども無料で支給された。おまけに作業後は町に一軒ある温泉に、無料で入れる手配までしてくれているという。比べることではないのだが、南三陸町のボランティアセンターのばたついた雰囲気とは、大きくちがっていた。ほんわかした雰囲気で、つい災害の支援にきたという使命を忘れそうになる。

マッチングの結果、ぼくは只見町市街地にある、Iさんという80歳のおばあちゃん宅での作業となった。メンバーはぼくを含めて5人。年配の方が多く、ぼくは最年少だった。

Iさん宅、といったが、そこはもうほとんど空き家で、誰も住んでいない。Iさんの旦那さんはとっくに亡くなっているし、息子さんも娘さんも家を出ている。Iさん自身も、現在はホームで暮らしているらしい。

そのホームのスタッフとともに、Iさんがやってきた。

何ともいえない可愛らしいおばあちゃんだった。全員、同じ気持ちらしく、みんな自分の祖母に接するかのように「おばあちゃん、おばあちゃん」と親しげに話しかけながら、作業内容をきいた。

「家の中の物を全部、外に出してほしいの」
おばあちゃんは割としっかりした声でいった。
「うちはよ、一階が地下になってて、そのほかに二階と三階があって、とてもとてもあたし1人じゃ物を外に出せないんだよ」

Iさん宅は、今回の豪雨による洪水の浸水がひどく、取り壊すほかなくなったという。もともと住んでいなかったし、どうせ取り壊すのだから中の物を出す必要などないかと思うのだが、それでも心情として、家をちゃんときれいにしたいらしい。そうした上で取り壊したいというおばあちゃんの気持ちは、何となくだがわかった。

車二台に分乗して、Iさん宅に向かった。一台は静岡からきたBさんの車、もう一台はボランティアセンターから借りた軽トラックだ。軽トラは、出した物を粗大ごみ置き場に捨てるために必要だった。そこにぼくと、横須賀からきたSさんが乗った。

只見町の市街地についた。

市街地といっても、そこは山間の町だけあってこじんまりとした集落だった。コンビニ一軒ない、寂しい町だ。

Iさん宅は、市街からややはずれた川沿いの集落の一つだった。川とIさん家の間には畑があるだけだ。その畑も今回の豪雨によってめちゃめちゃになっていた。その畑の道を、ぼくらとちがう班のボランティアがネコ車を押して歩いていた。すでに作業をはじめているようだ。民家の泥のかき出し作業らしい。

Iさんと一緒に家の中を見てまわった。

先ほど聞いたとおり、道路に面した部分が二階で、その下に一階があった。縦長の三階建ての家だ。それがこのあたりの集落の建築形式なのだろうか。見まわしたところ、どの家も三階建てで、一階は道路より下の、河川敷の畑に面していた。そうした住居のほとんどが被害を受けていて、ボランティアの人たちが、泥かきや荷物出しの作業をしていた。

ただ住人たちから悲惨さは感じられず、ちょっと拍子抜けした。あんた方遠いとこからどうもありがとね、といいながらよってくる近所の人たちには、むしろ明るさすらあった。豪雨からまだ10日してか経っていないのに、当日の話を冗談まじりに話す人もいたほどだ。

やっぱり三陸の沿岸とは被害の大きさがちがうんだな、と、比べてはいけないと思いつつ、ついそう感じてしまう。

先月おとずれた南三陸町は、震災から4か月経っても(7月の時点で)、今なお復興の「ふ」の字もはじまっていなかった。「ガレキの荒野」は今も荒野のままだし、行方不明の人だって大勢いるし、生き残った人たちだって、ようやく不自由な避難所暮らしを終えて仮設住宅に移ったところだ。

一方、ここは被害にこそ遭ったとはいえ、みんな自分の家で生活できている。それは大きいと思う。やっぱり住む場所というのは、心の安定において、でかい存在だ。

ホンダのカブに乗った、でっぷりと太った爺さんがやってきて作業に加わった。近所に住む、Iさんの義弟だという。Iさんにかわって、ぼくらに作業の指示を出した。かなり大ざっぱな人で、Iさんの細かな注文を、ほとんどはしょって指示してくる。いいよいいよ捨てちゃって、みたいに。

ぱっと見は、これだけ? と感じた荷物だったが、いざ作業をはじめるとなかなかの量だった。軽トラックの荷台に満載した荷物を、7往復はしただろうか。

ぼくと横須賀からきたSさんが、出した荷物を軽トラックで捨てにいった。お宝といっていい、年代物の道具がかなり捨てられていた。
「オークションに出したら、100万くらいになるんじゃないか」
荷物をぶん投げながら、Sさんはいう。
「下手すりゃもっといくぞ。こいつらかなりの骨董だよ」

お宝は骨董だけでなく、手紙とか写真とか日記とか、個人的なものもふくまれていた。ぼくはそれらを捨てながら、南三陸町でのボランティアを思い出した。「写真洗浄」の作業をしたときのこと。写真のほかに、手紙や日記、授業のノート、通信簿、賞状など、あらゆるものを捨てずに、丁寧に洗浄してかわかし、保管していた。それがここではすべて捨てている。

「南三陸町では、こういうの全部捨てずに取っときましたよ」
「ああ。女川でもそうだった」
Sさんは、自分がボランティアとして訪れた土地の名を口にした。
「たぶんよ、向こうはみんな死んでしまったから、物はすべて大切に取っとくんだよ。こっちはみんな生きてるから。こだわらずにどんどん捨てるんじゃないか」
そうかもしれないな、とぼくは同意した。それほどに三陸の沿岸部の被害はとてつもなかったのだ。

昼食は、ボランティアセンターに戻って取った。

地元でトマトなどがふるまわれ、楽しい昼食となった。南三陸町では、こんな雰囲気はなかった。ハエにたかられながら、ガレキの荒野を見つめながらの昼飯は、心が重くなるばかりでちっとも食った気がしなかった。それがここでは、「町内会の草取り作業の昼食」といった、朗らかな雰囲気だ。

午後の作業はあっという間に終わった。

すぐにボランティアセンターに戻ってもしょうがないので、ぼくらは近所の人たちと談笑した。会津のこと。川のこと。作物のこと。冬の厳しさのこと。そういう一つひとつの話が、炎天下の作業でくたびれたぼくの心に、深くしみていった。ああ、この人たちは会津が大好きなんだな、と思った。この土地が唯一無二の故郷なのだ。

夕方、ボランティアセンターに戻った。

軽トラックを返し、作業報告をすませて、その日の作業は終了となった。町の温泉「湯ら里」の無料入浴券をもらったので、一緒に作業した仲間4人で(1人は帰った)、汗を流しにいった。

その温泉は土地の人も入りにくるらしく、湯につかりながら会話ができた。今回の水害のことや、原発のこと、それにともなう風評被害のこと、話題はどれも深刻なはずなのに、土地の人たちはみんな、笑いをまじえて話していた。
「東京に嫁いだ娘の家にいくべ? するとよ、じいちゃん、家に入る前に車の中で着替えて、っていって、部屋着をわたされるんだ。まいっちまうべ?」
そういって、がはは、と笑うが、ぼくは笑えなかった。



みんなと別れたぼくは、被害が大きかったという八木沢の集落を訪れた。そこでブログ記事用の写真を撮って、今回のボランティアとしての使命を終わりにする。

只見町の市街地を北に向かって走る。家並みが背後に遠ざかり、道が右へと大きくカーブすると、あたりの様子は一変した。

土砂崩れがすごいのだ。

慎重に車を走らせ、さらに進んでいくと、やがて押しつぶされた民家がポツリポツリと見えてきた。

……!

ここだ!

八木沢の集落だ。

集落全体が土砂に覆われたらしく、民家はどれも押しつぶされていた。ひどい。ひどすぎるありさまだ。

壊滅的な被害を受けたのは集落の家々だけではない。押しつぶされた民家の背後、川沿いに広がっていたと思われる田んぼも、消えてなくなっている。一面、灰色の砂浜と化しているのだ。その何とも奇怪な光景が、一帯が川に埋まっていたことを物語っている。

両岸をつなぐ大きな橋も、無残なまでに損壊していた。こちらは増水した川の流れにたたき壊されたのだろう。

ぼくは車から降り、集落を歩いた。

押しつぶされた民家を見つめ、ほんの10日ほど前にはそこにあった、人の暮らしを想像する。

三陸の沿岸で「ガレキの荒野」を見たときと同じ感情が、ぼくの内側でざわめいた。何だよこれ、と思わず声をもらした。善の猛威によって、跡形もなく吹き飛ばされてしまった人々の生活……。それを思うと、ただただ愕然としてしまって、腹に力が入らない。

同じなんだ……。

消えてしまった町にとっては、押しつぶされてしまった家にとっては、落としてしまった命にとっては、被害の規模の大きさなんて関係ない。数字ではないのだ。同じなのだ。三陸の沿岸も。ここ福島県只見町も。

わかっていたつもりだったのに、ついついぼくは三陸の沿岸の被害の大きさと比べてしまっていた。それはボランティアにきた者として恥ずべきことだ。

携帯電話を手に取り、カメラ機能のレンズを集落に向けた。被害の状況を記録し、ブログにのせ、1人でも多くの人に現実を知ってもらうのだ。そのうち何人かでも支援したいと手を挙げてくれれば、この地を見た者の1人として、使命を果たせたことになる。

携帯電話のカメラ機能の画像越しに、押しつぶされた民家を見る。

見る……。

やめた……。

とてもじゃないが、シャッターは押せない。

ぼくは携帯電話をニッカポッカのポケットにしまい、あらためて集落を見た。

日が暮れていくのも忘れて、いつまでもその場に立ちつくした。




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新潟・福島豪雨復興支援ボランティア~福島県南会津郡只見町へ その2

その1→http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/blog-entry-478.html

新潟・福島豪雨被害状況まとめ(8/1現在)http://matome.naver.jp/odai/2131216851532626801



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早朝の下郷の道の駅



9日の夜9時すぎ、福島県奥会津に入った。
国道289号の温泉で仕事と運転の疲れをいやし、下郷の道の駅で車中泊した。

翌朝は4時半に起き、ボランティアの活動場所である只見町へ向かった。
会津の山景色に囲まれた道を走っていると、つい自分の使命を忘れて、浮かれ気分になる。好きな感じの風景だった。形のいい連山の稜線も好きだし、そのふもとに横たわるエバーグリーンの田園風景はもっと好きだ。古めかしい、しかし威厳たっぷりの農家の家並み。田んぼの中にひっそりと並ぶ墓。朝の光を浴びた案山子たち……。そういう風景の一つひとつが、現れては背後にとおりすぎ、ぼくの心を潤していく。

ボランティアセンターには、6時半についた。

8時半のマッチング(ボランティアの活動場所の割り振り)まで、その辺を散歩した。どんな場所で、どんな状況にあっても、歩くってのはいいものだ。

だが、田んぼの用水路の濁った水を見て、ぼくは立ちどまった。エバーグリーンの稲穂に、不似合いな泥色の水。川の氾濫の名残だ。

ぼくは田んぼから離れた。やや早足で、町を流れる伊南川を見にいった。

轟音とともに、ぶっ壊れた川の風景が飛びこんできた。新潟と福島をおそった豪雨から、もう10日が経っているのに、川は氾濫の名残りを漂わせている。

さらに歩きつづけると、やがてあちこちに重機の姿が見えはじめた。橋が決壊しているのだ。それはもう無惨なまでに決壊していた。その光景を見るだけでも、今回の豪雨がいかにひどかったかがわかる。

そうだ。自分は復興の支援にきたのだ、とあらためて気持ちを引きしめた。決壊した橋、伊南川の濁流、何台もの重機、それらをしっかりと目に焼きつけ、ボランティアセンターに戻った。



8時に近づくと、駐車場に、県外ナンバーの車がちらほらと入ってきた。その数は、しかし哀しいほどに少なかった。何百という車がおしよせ、「ボランティア村」と化していた宮城県南三陸町と比べて、あまりに寂しいものだった。

ぼくの車の横にとまった春日部ナンバーの人と、少し話をした。
「みんなメディアの力に流されるんだよ」
昨日から泊まりできているという40代中頃のその男は、批判めいた口ぶりでいった。
「テレビつけりゃ、震災だの原発だの、そのニュースばっかりだろ? だからみんな三陸の沿岸にいっちゃうんだよ。いい方わるいけど、そっちの方が派手だから」
たしかにいい方はわるいが、そのとおりだと思った。
「向こうはもうマンパワーはそれほど必要としてないよ。もちろん人手はいるよ。だけどさ、向こうはもう避難所から仮設(住宅)に移ってるんだから、マンパワーより心のケアだよ、今はさ」
「緊急性はこっちの方が高いですよね」
「被害状況は、もう見た?」
「さっきちょっと歩いてきました。橋、決壊してましたね」
「ああ、あそこの橋ね。だけどこの辺は被害はそんなになかったよ。家なんかもしっかり残ってるだろ?」
ぼくは何となくあたりを見まわした。たしかに橋は壊れているものの、家々は被害に遭っていない。
「只見の市街地から三島の方に向かうとさ、ヤギサワって集落があるんだよ。俺、昨日の作業が終わってから夕方見てきたんだ」
「ヤギサワですか?」
「そう、八木沢。そこはひどいよ。集落が消えちゃったくらいだよ。壊滅的だね」
春日部ナンバーの男は小さく首を振った。
「写真なんて、とてもじゃないけど撮れないよ。ひどいよ。三陸の沿岸みたいな感じだよ。あれほど広範囲じゃないけどね」
「八木沢ですか」
ぼくは頭の中にその集落の名を刻むように確認した。
「そう。八木沢。きみも見てくるといいよ」
はい、とぼくは頷き、もう一度、詳しく道順を訊いた。地図があるから迷うことはないだろうが念のためだ。
「289号をずっといくと、一度う回路になるけど、道標どおりにいけば只見の市街地につくから。そこを三島方面にいけば途中にあるよ。すぐわかるよ。家がみんな壊れちゃってるから」
春日部ナンバーの男は何ともいえない表情で、また小さく首を振った。
「只見線も、もう復旧しないんじゃないかな。あれほどの被害じゃ直すったって莫大な費用がかかるし。直したところで、もともと赤字だから、あそこは」
「磐越西線は?」
「あっちは復旧すると思うけど、たぶんね。只見線は駄目だだろうなあ」
春日部ナンバーの男は携帯電話をちらりと見て、支度をはじめた。
「そろそろマッチングだ。受付にいこうか」
ぼくもはいていたサンダルを長靴にはきかえ、受付へと歩いた。


つづく



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新潟・福島豪雨復興支援ボランティア~福島県南会津郡只見町へ その1

山が好きで、大きい山、小さい山問わず、いろいろと登っている。

中でも好きなのが日光の山で、とくに白根山には、季節をかえて何度も登っている。冬の奥多摩も好きだ。南アルプス南部の山も、1シーズン小屋番をした関係で所縁が深い。千枚岳から荒川三山、赤石岳の山域は、心の山としてぼくの身体にしみている。

そんなぼくが、以前からずっと焦がれている山がある。

福島県の飯豊山だ。

誰に訊かれても、必ず即答している。一番登りたい山は飯豊山だと。

沢野ひとしさんが書いた「休息の山」というエッセイの情景が、印象に残って消えないのだ。その山旅の舞台が飯豊連峰だった。

ただアクセスが不便で、いこうといこうと思いつつ、なかなかいけないでいる。

……で、今年こそはと思い、仲間との初詣登山の際、今年登る山の目標として名前を挙げた。
だが東北があんなことになってしまい、とても山登りを楽しむ気分じゃなくなった。結局今年もいけそうにない。

今年は山は自粛だ。

……で、かわりといっては不謹慎だが、毎月一回、東北地方に復興支援のボランティアにいっている。5月に岩手の岩泉町、6月と7月に宮城県南三陸町。※参照→5/11東日本大震災復興支援ボランティア~岩手県岩泉町下閉伊郡岩泉町小本へ 7/8東日本大震災復興支援ボランティアその2~宮城県本吉郡南三陸町へ

ただ毎月復興支援の手伝いをしにかよっていると、何となく、自分たちの必要性の有無を感じ取れるようになる。で、そろそろボランティアはいらなくなってきてるんじゃないか、とぼくは感じはじめている。その分の仕事を、土地の人に与えた方がいいのではないか。今かれらに必要なのは、自分たちの地元を立て直してくれるマンパワーではなく、自分たちの生活を潤す「仕事」なのではないか。

そろそろボランティアから離れ、山登りを再開しようか。

8月の休日、念願の飯豊山に登ろうか。

そんなふうに考えはじめていていた。



ところで、飯豊連峰にいくには、磐越西線に乗って山都駅へ、そこからタクシーで川入までいく(7月中旬から8月中旬は会津バスが1日2本運行)。その道中もちょっとした旅だ。とくに郡山から会津、会津から新潟方面へと走る磐越西線の列車の旅は、想像するだけでわくわくする。

だから「磐越西線」の名は、いつでも頭にある。テレビなどでその名を耳にすると「ん?」と必ず反応するほどだ。

東日本大震災後の、郡山への石油輸送のニュースも居住まいを正して聴いたものだった。参照→福島・郡山に石油輸送=横浜から臨時運行-JR貨物


ちなみにそのときの映像がこちらだ。



「石油を運べ! 磐越西線迂回貨物」 dd51de10





「磐越西線 迂9292レ 立ち往生からの出発」 dd51de10





「磐越西線 迂9292レ 救援DE10到着」 dd51de10

※動画を提供してくださったdd51de10さん、ありがとうございます。



次に磐越西線の名を聴いたのは、7月29日、30日の、新潟県と福島県をおそった豪雨のニュースだった。

この豪雨で、磐越西線は、只見線とともに、運休を余儀なくされたという。

何ということか……

飯豊山にいこうかと考えていた矢先の、この出来事……

これで飯豊山はまた遠い山となった。

縁っていうのはあるんだなあ、とつくづく思った。ぼくと飯豊山は縁がなかったのだ。

そんなふうに自分と飯豊山との関係をしめくくりつつ、何かリアルな情報はないかと、ツィッターのTLを眺めた。

ある……。生々しいツイートが、ぼくのタイムラインに流れていくる。それも、いくつも。

ぼくのフォロワーにはなぜか福島県の人が多く、そのうちの何人かとはリプライし合う仲だ。その人たちのつぶやきを見て、ぼくはもういてもたってもいられなくなった。

いこう……。

すぐにネットでボランティアの受け入れをおこなっている自治体を調べた。すると南会津郡の只見町がボランティアセンターを立ち上げていると知った。

只見町は磐越西線沿線の町ではなく、只見線沿線の町だ。だがそれが何だ? この際、いけるところにいって人助けすればいいではないか。

ぼくは電話をかけ、県外の人間の受け入れ状況をたずねた。「きてくださるならこちらは大喜びです」と、会津弁で答えが返ってきた。

8月10日の水曜日、ぼくは福島県只見町行きを決めた。
かくしてぼくは、9日火曜日の仕事を終えると、車で福島県奥会津をめざしたのだった。


つづく




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福島県只見町へいってきます!

昨日はまたブログを休んでしまいました。旅の準備でバタバタしてしまって……。

そうです。また東北にいってきます! ここ3カ月で4度目の東北行き。

前々回、前回につづいて宮城県南三陸町にうかがう予定でいたのですが、急きょその予定を変更して、今回は福島県の只見町に向かいます。7月29日の新潟・福島の集中豪雨で多大な被害に遭った場所です。

南三陸町での支援活動もいまだ人手を要している様子ですが、より緊急性の高い場所という理由で、只見町にいくことにしました。只見町のボランティアセンターに電話であいさつしたところ、人手がかなり不足しているらしく、また作業内容もかなりの重労働になるということで、体力だけが自慢のぼくにうってつけかとも思いました。

南三陸町の皆さま、また現地で活動をつづけている皆さま、ごめんなさい。皆さまのことは決して忘れてませんが、今回はべつの場所に向かうことにいたしました。ご理解いただけたらと思います。

今日は仕事が3時には終わるので、そのまま高速に乗れば、早い時間に福島につくと思います。どこかの温泉でふろにつかり、今夜は車の中で眠って、明日10日に只見町での支援活動をいたします。

よって、またブログの更新をしばらく休ませていただきます。

帰宅は木曜日ですが、たぶんその日まで休むと思います。最近は休んでばかりで申し訳ないのですが、このブログの読者の皆さまなら、きっと理解してくださると信じてます。



では、皆さま、いってきます!



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