引っ越しをした。
……といっても同じ市内の近場から近場、賃貸アパートから賃貸アパートへの引っ越しで、とくに必要に迫られたものではない。単なる気分転換というか、断捨離をしたかったのだ。
使わなくなった道具、着なくなった衣服、読まずに取っておいた本、一切合切を捨てて、身軽になりたかったのだ。
当然、お金はかかった。物を捨てるといっても単純にゴミ捨て場に出せばいいわけではなく、最終的には業者に頼むことになった。引っ越したら引っ越したで、今度は新しい住まいにふさわしいカーテンやら絨毯やら家電やら、その他もろもろ買ったから、そこでもお金がかかった(断捨離とは矛盾するけど、しょうがない)。そもそも不動産屋との契約の際に、敷金だの礼金だの火災保険だのと、かなりの額を支払った。結局、なんだかんだでウン十万円がすっ飛んでいった。
だけど、そうやって大金をかけて引っ越しをする、という行為に意味があったのだ。何かがかわるような、いい風が吹きはじめるような、そんな期待で心がはずむのだ。
実際、6月の初めに引っ越しをして、そこを境に運気が上がった気がする。少なくとも、仕事運は上がった。この季節にしては来店客数が多いし、はじめてくるお客さんも多い。そのお客さんの大半が店を気に入ってくれて、二度目三度目とかよってくれている。結果、売り上げも好調で、この分なら引っ越しにかかった費用も、繁忙期前に取り戻せそうだ。
家の感じも気に入っていて、生活が豊かになったと実感できる。
間取りはメゾネットタイプの2DKで、1階に広めのダイニングキッチンと風呂、トイレ、洗面場、バルコニー、2階に洋室と和室の2部屋とバルコニーといった感じだ。
和室がぼくの部屋だ。ぼくは畳の上で寝たいタイプで、妻は子供の頃からベッド派だから、これはすぐに決まった。
断捨離したとはいえ、店関係の書類や過去のメモ帳、どうしても捨てきれなかった書籍や雑誌などを置くと、部屋はかなり手狭になった。その狭いスペースに、さらに机を置いて書斎みたいにする予定でいる。
書斎といっても、店がある日は家にはほとんど寝に帰るだけだから、使うのは休みの日だけだ。その休みにしたって家にいるなんてほぼゼロだし、帰宅後はリビング(本当はダイニングだが、ぼくらはあえてリビングと呼んでいる)でテレビを観ながら晩酌などしてすごすから、書斎を使う時間なんてほんのわずかだ。だけどそのわずかな時間、たとえば寝る前の1時間、本を読んだり書き物をしたり人生について考えたりする、そのわずかな時間が重要なのだ。1人で静かに1日を終えるための、自分だけの空間がほしいのだ。そこには机は不可欠であり、何なら机を置ける自室がほしいから引っ越しを決めたといってもいい。
その机は先日購入した。今はそれが届くのを、首長竜になって待っているところだ。
とにかくそんなこんなで、新しい生活がはじまったわけだ。
ところで……
今回の引っ越しで、何カ所目の住まいになるのか数えてみたら、実に11カ所目だった。そのうち子ども時代の、つまりは親に扶養されていた頃の家が3カ所、住みこみの仕事で暮らしたが部屋が2カ所、それを差し引いた6カ所が、自分で家賃を納めて暮らした部屋だ。
この年齢になって、いまだ賃貸の部屋というのも情けない話ではあるが、まあそれは生き方の問題だからいいだろう。重要なのは、少しずつではあるけど、グレードが上がっているということだ。人生の山登りが、ようやくこの高さまできた、そんな感覚だ。当然、高ければ高いほど、眺めはいい。
とはいえ、振り返ってみれば、どの部屋にも思い出はある。中でも1番思い入れが強いのは、やっぱりはじめて暮らしたアパートだろう。高校を出てすぐに借りた、家賃1万7千円の5畳一間の部屋だ。場所は札幌市近郊の学生街で、その家賃が物語るようにボロアパートだった。だけどはじめての自分の城だったから、とても気に入っていた。洗面場を兼ねた流し台とトイレがつくだけの小さな城。風呂は共同で、同じ敷地内に住む大家さんが、月水金に風呂をわかしてくれていた。風呂は週3回だけどシャワーは24時間自由に使えて、そこに置いてあった洗濯機も自由に使えた。それと建物の脇の一角にピンク電話があり、それも共同で使えた(説明する必要もないが当時は携帯電話などなかったし、そんなものが発明されるなんて誰一人想像もしていなかった)。 10円玉を入れればかけることができたが、たいていの人は、こちらからかけて電話番号を伝えて、その場で折り返しを待つ、そんなふうに利用していた。
そんな部屋から、ぼくの社会人(といっても定職に就いていたわけではないが)生活ははじまった。ここから成り上がってやるぜ、と鼻息も荒かった。そう、成り上がり。当時ぼくら落ちこぼれのバイブルだった矢沢永吉の著作「成り上がり」を読み、それにならってぼくも実家を出ようと思ったのだ。永ちゃんが夜汽車に乗って上京したように(実際に降り立ったのは横浜らしい)、ぼくは鈍行列車と連絡船を乗り継ぎ、札幌に出た。札幌にしたのは、実家がある千葉から東京じゃ近すぎるし、かといって関西にいくのは気が乗らなかった(関西出身の方ごめんなさい)し、じゃあ北海道にしようってことで、札幌に決めたのだった。
部屋は現地についてからさがした。学生街だから、近くの大学の掲示板に下宿先がいくつも貼り出してあって、ぼくは学生じゃなかったけど、そこから手頃な物件を見つけ出して直接たずねた。部屋は空いていたから、その場ですぐに決まった。今思うと、いくら昭和の時代の話とはいえ、よくも未成年のぼくに簡単に部屋を貸してくれたなあと思う。まあそんな感じに部屋は見つかり、社会人生活の一歩目を踏み出した。
あれから30年以上の時が経つ。
いろいろあったが、人生の山も、どうにかここまで登ってこられた。そこそこいい眺めだ。永ちゃんのようには成り上がれなかったけれど、それなりに充実した山登りではあったと思う。
もちろん、まだ登りきってはいない。
この新しい部屋が終の住処になるか、あるいはさらに上等な住居へと成り上がるのか、まだまだ人生の山登りはまだまだつづいてくのだ。
……といっても同じ市内の近場から近場、賃貸アパートから賃貸アパートへの引っ越しで、とくに必要に迫られたものではない。単なる気分転換というか、断捨離をしたかったのだ。
使わなくなった道具、着なくなった衣服、読まずに取っておいた本、一切合切を捨てて、身軽になりたかったのだ。
当然、お金はかかった。物を捨てるといっても単純にゴミ捨て場に出せばいいわけではなく、最終的には業者に頼むことになった。引っ越したら引っ越したで、今度は新しい住まいにふさわしいカーテンやら絨毯やら家電やら、その他もろもろ買ったから、そこでもお金がかかった(断捨離とは矛盾するけど、しょうがない)。そもそも不動産屋との契約の際に、敷金だの礼金だの火災保険だのと、かなりの額を支払った。結局、なんだかんだでウン十万円がすっ飛んでいった。
だけど、そうやって大金をかけて引っ越しをする、という行為に意味があったのだ。何かがかわるような、いい風が吹きはじめるような、そんな期待で心がはずむのだ。
実際、6月の初めに引っ越しをして、そこを境に運気が上がった気がする。少なくとも、仕事運は上がった。この季節にしては来店客数が多いし、はじめてくるお客さんも多い。そのお客さんの大半が店を気に入ってくれて、二度目三度目とかよってくれている。結果、売り上げも好調で、この分なら引っ越しにかかった費用も、繁忙期前に取り戻せそうだ。
家の感じも気に入っていて、生活が豊かになったと実感できる。
間取りはメゾネットタイプの2DKで、1階に広めのダイニングキッチンと風呂、トイレ、洗面場、バルコニー、2階に洋室と和室の2部屋とバルコニーといった感じだ。
和室がぼくの部屋だ。ぼくは畳の上で寝たいタイプで、妻は子供の頃からベッド派だから、これはすぐに決まった。
断捨離したとはいえ、店関係の書類や過去のメモ帳、どうしても捨てきれなかった書籍や雑誌などを置くと、部屋はかなり手狭になった。その狭いスペースに、さらに机を置いて書斎みたいにする予定でいる。
書斎といっても、店がある日は家にはほとんど寝に帰るだけだから、使うのは休みの日だけだ。その休みにしたって家にいるなんてほぼゼロだし、帰宅後はリビング(本当はダイニングだが、ぼくらはあえてリビングと呼んでいる)でテレビを観ながら晩酌などしてすごすから、書斎を使う時間なんてほんのわずかだ。だけどそのわずかな時間、たとえば寝る前の1時間、本を読んだり書き物をしたり人生について考えたりする、そのわずかな時間が重要なのだ。1人で静かに1日を終えるための、自分だけの空間がほしいのだ。そこには机は不可欠であり、何なら机を置ける自室がほしいから引っ越しを決めたといってもいい。
その机は先日購入した。今はそれが届くのを、首長竜になって待っているところだ。
とにかくそんなこんなで、新しい生活がはじまったわけだ。
ところで……
今回の引っ越しで、何カ所目の住まいになるのか数えてみたら、実に11カ所目だった。そのうち子ども時代の、つまりは親に扶養されていた頃の家が3カ所、住みこみの仕事で暮らしたが部屋が2カ所、それを差し引いた6カ所が、自分で家賃を納めて暮らした部屋だ。
この年齢になって、いまだ賃貸の部屋というのも情けない話ではあるが、まあそれは生き方の問題だからいいだろう。重要なのは、少しずつではあるけど、グレードが上がっているということだ。人生の山登りが、ようやくこの高さまできた、そんな感覚だ。当然、高ければ高いほど、眺めはいい。
とはいえ、振り返ってみれば、どの部屋にも思い出はある。中でも1番思い入れが強いのは、やっぱりはじめて暮らしたアパートだろう。高校を出てすぐに借りた、家賃1万7千円の5畳一間の部屋だ。場所は札幌市近郊の学生街で、その家賃が物語るようにボロアパートだった。だけどはじめての自分の城だったから、とても気に入っていた。洗面場を兼ねた流し台とトイレがつくだけの小さな城。風呂は共同で、同じ敷地内に住む大家さんが、月水金に風呂をわかしてくれていた。風呂は週3回だけどシャワーは24時間自由に使えて、そこに置いてあった洗濯機も自由に使えた。それと建物の脇の一角にピンク電話があり、それも共同で使えた(説明する必要もないが当時は携帯電話などなかったし、そんなものが発明されるなんて誰一人想像もしていなかった)。 10円玉を入れればかけることができたが、たいていの人は、こちらからかけて電話番号を伝えて、その場で折り返しを待つ、そんなふうに利用していた。
そんな部屋から、ぼくの社会人(といっても定職に就いていたわけではないが)生活ははじまった。ここから成り上がってやるぜ、と鼻息も荒かった。そう、成り上がり。当時ぼくら落ちこぼれのバイブルだった矢沢永吉の著作「成り上がり」を読み、それにならってぼくも実家を出ようと思ったのだ。永ちゃんが夜汽車に乗って上京したように(実際に降り立ったのは横浜らしい)、ぼくは鈍行列車と連絡船を乗り継ぎ、札幌に出た。札幌にしたのは、実家がある千葉から東京じゃ近すぎるし、かといって関西にいくのは気が乗らなかった(関西出身の方ごめんなさい)し、じゃあ北海道にしようってことで、札幌に決めたのだった。
部屋は現地についてからさがした。学生街だから、近くの大学の掲示板に下宿先がいくつも貼り出してあって、ぼくは学生じゃなかったけど、そこから手頃な物件を見つけ出して直接たずねた。部屋は空いていたから、その場ですぐに決まった。今思うと、いくら昭和の時代の話とはいえ、よくも未成年のぼくに簡単に部屋を貸してくれたなあと思う。まあそんな感じに部屋は見つかり、社会人生活の一歩目を踏み出した。
あれから30年以上の時が経つ。
いろいろあったが、人生の山も、どうにかここまで登ってこられた。そこそこいい眺めだ。永ちゃんのようには成り上がれなかったけれど、それなりに充実した山登りではあったと思う。
もちろん、まだ登りきってはいない。
この新しい部屋が終の住処になるか、あるいはさらに上等な住居へと成り上がるのか、まだまだ人生の山登りはまだまだつづいてくのだ。
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8年前の6月16日、この小さな町の、さらに人通りの少ない一角で、ぼくはこの店をオープンした。
梅雨の晴れ間の大安吉日。風が強くて、はじめてかけたのれんがひどくはためいていたのをおぼえている。
何の告知もせず、ひっそりとオープンした。知人にすら知らせなかった。もしかしたら誰一人こないかもしれない。そうも思ったが、それでもいいという気持ちだった。むしろ客が殺到してパニックになる方をおそれた。少しずつ動きに慣れていき、店の存在が知れわたる頃にしっかりとサービスできている、そんなふうにしていきたかったのだ。おでんのだし汁の味も、その頃には整うだろう。だからたまたまだったけど、これから夏に向かう季節に店をはじめられたのはかえってよかった。10月11月の寒くなる時期からが勝負だと思っていた。
店の名は、まちのひ。
チャップリンの映画「City Lights」の邦題「街の灯(まちのひ)」からいただいた。この店を、ぼくらが暮らす街の灯(まちのひ)にしたいという思いをこめて。
不安はなかった。かといって希望に満ちていたわけでもなかった。ただ気持ちは昂っていた。ついにはじまった。もう後戻りはできない。この店を成功させなければ、自分はもう終わりなのだ。そんな覚悟を持った船出だった。ほかに進む道はない。この店をつづけていくという道しか、ぼくにはもう残されていないのだ。
長い間ずっと追いかけていた夢がついえ、死にたくなるくらいの絶望からどうにか立ち上がって、自分の店を持とうと決めた。それから2年間、日中の仕事をつづけながら夜は居酒屋で修業し、どうにか自分の店を持てた。あとはこの店を成功に導くだけだ。
初日のお客さんは一人客だけの3人で、翌日も3人、その翌日は5人だったか。そんなふうに少しずつ来店客が増えていき、1カ月が経つ頃には、自分の食いぶちは稼げるようになっていた。
おいしいといって喜んでくれる人が大半だったけど、中には「この土地で商売するのは難しいよ」と上からいってくる客も少なくなかった。たいていはどこかの店の常連で、新参者に対して物いうことに悦を感じる輩だった。そういう人間がぼくは大嫌いだから、心の中で「うるせえ馬鹿」と思いながら、適当に話を聞き流した。かれらは小一時間ああだこうだと講釈をたれつづけけると、「けっ、つまらねえ店だな」といった表情で帰っていった。中にはあからさまに「こんな店は長くつづかねえよ」という人もいた。そんな言葉を投げられれば投げられるほど、やってやろうじゃねえかと心を燃やした。
秋がきて、おでんが恋しい季節になると、店は客であふれかえった。夏になればまた客足は減ったが、それでもそこそこの売り上げは確保できた。そしてまた寒い季節がくれば、店は連日にぎわった。そんなふうに月日が流れていき、先日、店は8周年を迎えた。
あっという間だったとも感じないし、長かったとも思わない。ただ濃密な8年だったことはたしかだ。順風満帆ではなかったけど、充足した毎日だった。
長い間ずっとアルバイトをしながら夢を追いつづけ、才能ないよといわれつづけた。結局目が出ないまま夢にやぶれ、自分はもう空っぽだと絶望した。あのとき、ぼくの人生は終わったと思った。自ら命を断とうとは思わなかったけど、何かの拍子に死んでしまうならそれでもいいと思うくらい、この先の人生に意味が持てなかった。
そんな自分が店を開き、人々から喜ばれている。
天職だったんだろうなと思う。一番やりたかった仕事ではないけど、料理人というこの仕事は、おでん屋の店主という仕事は、間違いなくぼくにとっての天職だ。一番やりたかった仕事を追い求めていた頃は、何をやってもうまくいかなかった。まるで神様の死角の中で生きているかのような、不運つづきの毎日だった。それが夢にやぶれ、自分の店を持とうと決めてから、すべてが好転しはじめたのだ。やれやれやっと自分の役目に気づいたかと、神様が微苦笑しながら後押ししてくれたかのようだった。
あのとき、人生をあきらめないでよかったと心から思う。
店は9年目に入った。5年以内の廃業率が80%といわれる飲食店業界の中で、よくぞここまできたなあと思う。だけどそれは自分の実力なんかじゃなく、100パーセント運のおかげだ。神様が、いつもいい運気だけをぼくに与えてくれているのだ。そしてそれは人に恵まれているということでもある。いいお客さんに囲まれているから、ぼくはここまでやってこられた。
ありがとう。
これからもがんばっていこう。後戻りのできない旅は、まだまだつづくのだ。
梅雨の晴れ間の大安吉日。風が強くて、はじめてかけたのれんがひどくはためいていたのをおぼえている。
何の告知もせず、ひっそりとオープンした。知人にすら知らせなかった。もしかしたら誰一人こないかもしれない。そうも思ったが、それでもいいという気持ちだった。むしろ客が殺到してパニックになる方をおそれた。少しずつ動きに慣れていき、店の存在が知れわたる頃にしっかりとサービスできている、そんなふうにしていきたかったのだ。おでんのだし汁の味も、その頃には整うだろう。だからたまたまだったけど、これから夏に向かう季節に店をはじめられたのはかえってよかった。10月11月の寒くなる時期からが勝負だと思っていた。
店の名は、まちのひ。
チャップリンの映画「City Lights」の邦題「街の灯(まちのひ)」からいただいた。この店を、ぼくらが暮らす街の灯(まちのひ)にしたいという思いをこめて。
不安はなかった。かといって希望に満ちていたわけでもなかった。ただ気持ちは昂っていた。ついにはじまった。もう後戻りはできない。この店を成功させなければ、自分はもう終わりなのだ。そんな覚悟を持った船出だった。ほかに進む道はない。この店をつづけていくという道しか、ぼくにはもう残されていないのだ。
長い間ずっと追いかけていた夢がついえ、死にたくなるくらいの絶望からどうにか立ち上がって、自分の店を持とうと決めた。それから2年間、日中の仕事をつづけながら夜は居酒屋で修業し、どうにか自分の店を持てた。あとはこの店を成功に導くだけだ。
初日のお客さんは一人客だけの3人で、翌日も3人、その翌日は5人だったか。そんなふうに少しずつ来店客が増えていき、1カ月が経つ頃には、自分の食いぶちは稼げるようになっていた。
おいしいといって喜んでくれる人が大半だったけど、中には「この土地で商売するのは難しいよ」と上からいってくる客も少なくなかった。たいていはどこかの店の常連で、新参者に対して物いうことに悦を感じる輩だった。そういう人間がぼくは大嫌いだから、心の中で「うるせえ馬鹿」と思いながら、適当に話を聞き流した。かれらは小一時間ああだこうだと講釈をたれつづけけると、「けっ、つまらねえ店だな」といった表情で帰っていった。中にはあからさまに「こんな店は長くつづかねえよ」という人もいた。そんな言葉を投げられれば投げられるほど、やってやろうじゃねえかと心を燃やした。
秋がきて、おでんが恋しい季節になると、店は客であふれかえった。夏になればまた客足は減ったが、それでもそこそこの売り上げは確保できた。そしてまた寒い季節がくれば、店は連日にぎわった。そんなふうに月日が流れていき、先日、店は8周年を迎えた。
あっという間だったとも感じないし、長かったとも思わない。ただ濃密な8年だったことはたしかだ。順風満帆ではなかったけど、充足した毎日だった。
長い間ずっとアルバイトをしながら夢を追いつづけ、才能ないよといわれつづけた。結局目が出ないまま夢にやぶれ、自分はもう空っぽだと絶望した。あのとき、ぼくの人生は終わったと思った。自ら命を断とうとは思わなかったけど、何かの拍子に死んでしまうならそれでもいいと思うくらい、この先の人生に意味が持てなかった。
そんな自分が店を開き、人々から喜ばれている。
天職だったんだろうなと思う。一番やりたかった仕事ではないけど、料理人というこの仕事は、おでん屋の店主という仕事は、間違いなくぼくにとっての天職だ。一番やりたかった仕事を追い求めていた頃は、何をやってもうまくいかなかった。まるで神様の死角の中で生きているかのような、不運つづきの毎日だった。それが夢にやぶれ、自分の店を持とうと決めてから、すべてが好転しはじめたのだ。やれやれやっと自分の役目に気づいたかと、神様が微苦笑しながら後押ししてくれたかのようだった。
あのとき、人生をあきらめないでよかったと心から思う。
店は9年目に入った。5年以内の廃業率が80%といわれる飲食店業界の中で、よくぞここまできたなあと思う。だけどそれは自分の実力なんかじゃなく、100パーセント運のおかげだ。神様が、いつもいい運気だけをぼくに与えてくれているのだ。そしてそれは人に恵まれているということでもある。いいお客さんに囲まれているから、ぼくはここまでやってこられた。
ありがとう。
これからもがんばっていこう。後戻りのできない旅は、まだまだつづくのだ。
JR東海のキャンペーンで、「そうだ 京都、行こう」ってのがある。首都圏などからの観光客を京都に誘致するためのもので、はじまりは1993年、「わたしのお気に入り」のBGMをバックにしたCMで有名なアレだ。
「そうだ、京都、行こう」
そう思い立ってすぐに新幹線のチケットを取り、次の休日には京都を旅行する。そのフットワークの軽い感じが、ぼくの心に響いた。30年前に流れたそのCMが、その後のぼくの生き方の指針になった。
たとえば、前回このブログで書いたスキーも、そんな感じにはじめた。
そうだ、スキー、やろう……
そう思い立ち、すぐにネットで新幹線のチケットをさがしたのだ。そこで「JRスキースキー」という、往復の新幹線の料金とスキー場のリフト券がセットになったツアーを見つけた。ゲレンデによって異なるが、日帰りスキーで7000円台からあった。
そんなに安いなら、こりゃもういくしかない。ただネックは出発時間だった。一番近いスキー場でも、自宅を朝6時には出ないとならないのだ。そうなると朝5時か、遅くても5時半起きだ。これは普段の生活でぼくの寝る時間だった。昼夜が(正確には夜昼が)逆転してしまう。
まあなんとかなるだろう。車でいくとなると厳しいが、列車なら寝ていればいい。ましてや新幹線なら快適に寝られるはずだ。
決めた。スキーにいく!
いろいろあるスキー場から、ガーラ湯沢という上越新幹線の駅に直結しているゲレンデを選んだ。往復の交通費とリフト券がセットで7800円、スキーのレンタル代を合わせても15000円でお釣りがくる。
で、新幹線に乗って、ガーラ湯沢スキー場に向かった。去年の1月の話だ。
ガーラ湯沢駅の改札を出ると、もうそこがスキー場の受付だった。そこでリフト券を受け取り、さらに進むと、スキーとスノーボードのレンタル施設があった。ぼくはスキー板とブーツ、ストック、それとスキーウェアを借りた。ロッカールームで着替えを済ませると、ゴンドラに乗ってゲレンデに向かった。もうずっと興奮しっぱなしだった。
ゲレンデにつき、そこでぼくは大事なことに気づいた。スキー板の履き方がわからないのだ。そう、前回書いたが、ぼくはスキーの経験がほとんどないのだ。
手持ちのiPhoneを開き、「スキー履き方」で検索して、それを手本にスキー板を履いた。おっかなびっくりで雪の上を進み、初心者コースに向かうリフトに乗った。
で、すべった。
意外といけた。怖くなかった。それどころか楽しいと感じた。楽しい! いや、楽しすぎる! ヤバい。最高だ!
ハマった。どハマりだ。泥沼ハマりだ!
夕方の4時までめいいっぱいすべり、充足感たっぷりで帰途についた。帰りの新幹線で、早くも次の日帰りスキーツアーの予約をした。そこからシーズンが終わる5月の連休明けまで、いけるかぎりスキーにいった。
春夏を挟んで、今シーズンもまたスキーにいきまくった。もう自分の生活にスキーは欠かせないものとなった。それもすべては、「そうだ、スキー、やろう」という思いつきからはじまったのだ。
スキーだけじゃない。思い立ったらすぐに行動するのは、日々あらゆることで実践している。
そもそもこの店だって、そんなふうに思い立ってはじめたのだ。流石に人生をかけた決断だから「そうだ、京都、行こう」や「スキー、やろう」ほど軽くはなかったが、悩みに悩んだ挙句の決断ではなかったことは確かだ。直感的に「おでん屋でもやるか」と思い立ち、すぐに修業先をさがしはじめた。
そして、今の自分がいる。おでん屋の店主。この先の人生をかけるのに、わるくない仕事だ。
「そうだ、京都、行こう」
すべてはそこからはじまった。
この言葉が人生の指針であり、座右の銘といってもいい。この先の人生も、そんなふうにやっていこうと思っている。自分の直感を信じて、そしてすぐに行動する。
次は何をやらかすのか、自分でも予想がつかない。
楽しい人生だ。
肝心の京都には、いまだ縁がないけどね。
「そうだ、京都、行こう」
そう思い立ってすぐに新幹線のチケットを取り、次の休日には京都を旅行する。そのフットワークの軽い感じが、ぼくの心に響いた。30年前に流れたそのCMが、その後のぼくの生き方の指針になった。
たとえば、前回このブログで書いたスキーも、そんな感じにはじめた。
そうだ、スキー、やろう……
そう思い立ち、すぐにネットで新幹線のチケットをさがしたのだ。そこで「JRスキースキー」という、往復の新幹線の料金とスキー場のリフト券がセットになったツアーを見つけた。ゲレンデによって異なるが、日帰りスキーで7000円台からあった。
そんなに安いなら、こりゃもういくしかない。ただネックは出発時間だった。一番近いスキー場でも、自宅を朝6時には出ないとならないのだ。そうなると朝5時か、遅くても5時半起きだ。これは普段の生活でぼくの寝る時間だった。昼夜が(正確には夜昼が)逆転してしまう。
まあなんとかなるだろう。車でいくとなると厳しいが、列車なら寝ていればいい。ましてや新幹線なら快適に寝られるはずだ。
決めた。スキーにいく!
いろいろあるスキー場から、ガーラ湯沢という上越新幹線の駅に直結しているゲレンデを選んだ。往復の交通費とリフト券がセットで7800円、スキーのレンタル代を合わせても15000円でお釣りがくる。
で、新幹線に乗って、ガーラ湯沢スキー場に向かった。去年の1月の話だ。
ガーラ湯沢駅の改札を出ると、もうそこがスキー場の受付だった。そこでリフト券を受け取り、さらに進むと、スキーとスノーボードのレンタル施設があった。ぼくはスキー板とブーツ、ストック、それとスキーウェアを借りた。ロッカールームで着替えを済ませると、ゴンドラに乗ってゲレンデに向かった。もうずっと興奮しっぱなしだった。
ゲレンデにつき、そこでぼくは大事なことに気づいた。スキー板の履き方がわからないのだ。そう、前回書いたが、ぼくはスキーの経験がほとんどないのだ。
手持ちのiPhoneを開き、「スキー履き方」で検索して、それを手本にスキー板を履いた。おっかなびっくりで雪の上を進み、初心者コースに向かうリフトに乗った。
で、すべった。
意外といけた。怖くなかった。それどころか楽しいと感じた。楽しい! いや、楽しすぎる! ヤバい。最高だ!
ハマった。どハマりだ。泥沼ハマりだ!
夕方の4時までめいいっぱいすべり、充足感たっぷりで帰途についた。帰りの新幹線で、早くも次の日帰りスキーツアーの予約をした。そこからシーズンが終わる5月の連休明けまで、いけるかぎりスキーにいった。
春夏を挟んで、今シーズンもまたスキーにいきまくった。もう自分の生活にスキーは欠かせないものとなった。それもすべては、「そうだ、スキー、やろう」という思いつきからはじまったのだ。
スキーだけじゃない。思い立ったらすぐに行動するのは、日々あらゆることで実践している。
そもそもこの店だって、そんなふうに思い立ってはじめたのだ。流石に人生をかけた決断だから「そうだ、京都、行こう」や「スキー、やろう」ほど軽くはなかったが、悩みに悩んだ挙句の決断ではなかったことは確かだ。直感的に「おでん屋でもやるか」と思い立ち、すぐに修業先をさがしはじめた。
そして、今の自分がいる。おでん屋の店主。この先の人生をかけるのに、わるくない仕事だ。
「そうだ、京都、行こう」
すべてはそこからはじまった。
この言葉が人生の指針であり、座右の銘といってもいい。この先の人生も、そんなふうにやっていこうと思っている。自分の直感を信じて、そしてすぐに行動する。
次は何をやらかすのか、自分でも予想がつかない。
楽しい人生だ。
肝心の京都には、いまだ縁がないけどね。
店をオープンしてから5年は、仕事に全身全霊をかけていた。
17時から24時までの営業と、仕入れとしこみ、店の掃除、食器洗い、鍋洗い、片づけなど、すべてをこなすと、労働時間は1日16時間、多い日は19時間におよんだ。
週に一度の定休日も、おでんの出汁に火を入れたり、厨房を掃除したり、遠出して仕入れ先をさがしたりと、店のために使っていた。夜になれば飲みに出かけたけど、それだって、気になっている店や名のある店に出向いて、視察あるいは勉強にあてていた。
昔から本を読むのが好きで、小説やら実用書やら、ジャンルを問わずに片っぱしから読んでいたが、その時間すら店を出してからはなくなった。たまにあっても手にするのは料理に関するもので、和洋中のレシピ本や、巨匠と呼ばれる料理人の伝記などを読んでは、自分の肥やしにしていた。
店を出す前は、波乗りや山登り、草サッカーなど、趣味も多かったが、それらもいっさいしなくなった。趣味とか遊びとか旅行にいくとか、そういうものはすべて捨てたのだ。自分の店を持つというのはそういうことだと思ったし、その覚悟がなければ店なんて出せないと思っていた。
立ちどまったら負けだと思っていた。店を大きくすること、地域で一番の繁盛店にすること、それだけを考えて生きていた。
実際、店は繁盛していたし、結果が伴うから長時間労働も苦じゃなかった。もっともっとがんばって、もっともっと店をでかくしよう、この先の人生、そうやって生きていこう、そう思っていた。
そんなふうに5年間をすごした頃、世界中でパンデミックがはじまった。新型コロナウイルスの感染拡大だ。
ぼくの店も、テイクアウト営業に切りかえたり、自治体の要請にしたがって営業時間の短縮を余儀なくされたり、通常どおりの仕事ができなくなった。築き上げてきたものが潰えてしまう不安を抱きながら、一方で長時間労働をまぬがれて、息をつく自分もいた。
不意に与えられた自由な時間で、ぼくは新しいメニューの試作をはじめた。多くは将来的にメニューとして出すための酒のつまみだったが、ときにはイタリアンや中華やエスニック料理など、ジャンルを越えたものもやってみた。ボルシチとかクリームシチューとか、何時間もかけて煮こむ本格的な料理にもチャレンジした。それはすごく楽しい時間だった。あらためて自分は料理が好きだと感じた。考えてみれば、こんなふうに創造的に料理するなんて長いことしていなかった。店を出してからずっと、つくってもつくっても消費されていくメニューを、ただただつくりつづけるだけの日々だったのだ。
また家族のために時間を使うこともできた。外出自粛など行動制限はあったけど、車で出かけたり、コーヒーを飲みながら話したり、近所を散歩したり、長い時間をともにできた。そうすることで相手も喜んだし、自分自身も気持ちが満たされた。とてもおだやかで、やさしい時間だった。
新しい趣味もはじめた。
ウイルスの感染が拡大したり落ちついたりがくり返される中、可能な範囲で何か楽しめることはないかと思いはじめたのが、去年の冬だった。ぼくはスキーをはじめた。屋外のスポーツだからウイルスの感染もしにくく、昔とった杵柄でふたたびスキーをはじめる中高年が増えた、というニュースを聞いて、ちょっとその気になったのだ。
ただぼくの場合は中高年ではあるものの「昔とった杵柄」ではなかった。小学生のときに一度、20歳のときに一度、無理やり連れていかれたことがあるだけで、まったくの初心者同様だった。50すぎの手習いにしてはハードルが高い気もしたが、とにかくやってみることにした。
……で、ハマった。泥沼だ。
そのシーズンは全部で9回スキーにいった。2シーズン目となる今シーズンは16回いった。何度いっても飽きない。それどころか益々ハマっていく。おそらく来シーズンもその次のシーズンも、体力がつづくかぎり同じペースでスキー場にかようだろう。
そんなわけで、今ぼくの店の定休日は、月曜火曜となっている。営業日の労働時間はあいかわらずだが、週に二日休むことで生活の質が向上した。もちろんその分、売り上げは減るけど、自分にとって何が大切かを考えたら、その時間は必要だ。
そう、自分にとって何が大切か……
店は大切だ。この仕事が好きだし、自分の店をもっとよくしたい気持ちはかわらない。だけどそれだけでいいのか。自分の店のために全力を注ぐだけの人生でいいのだろうか。
立ちどまったたら負けだ。
以前はそう思っていた。だから走りつづけた。この先もずっと走りつづけて、誰にも負けない自分になるんだと、そう思っていた。だけど……
誰かがいっていた。
I life moves pretty fast.
If you don’t stop and look around once in a while, you could miss it.
人生は早い。
時に立ち止まり、周りを見ないと、大切なものを見失う。
偶然に与えられた時間が、ぼくに立ちどまることを教えてくれた。コロナ禍で失ったものも多かったけど、一方で、たいせつなものに気づかせてもくれた。
定休日が二日もあるなんて、店を出した当初は考えられなかった。でも今は、休みが二日あることで、穏やかな気持ちになれる。やさしい心が持てる。仕事のうえでも同じだ。どこにも負けない店をめざすという勝負からおりたことで、お客さん一人一人に気持ちを注ぐことができるようになった。
5月の連休明けの定休日を最後に、今シーズンのスキーは終わった。ここから半年、ぼくはまた無趣味な人間になる。休みの日には、カフェで読書したり、まちを散歩したり、家族と出かけたり、友人と会って話したり、そうやって穏やかでやさしい時間をすごそうと思う。
大切なものを見失わないように。
人生は早いから。
17時から24時までの営業と、仕入れとしこみ、店の掃除、食器洗い、鍋洗い、片づけなど、すべてをこなすと、労働時間は1日16時間、多い日は19時間におよんだ。
週に一度の定休日も、おでんの出汁に火を入れたり、厨房を掃除したり、遠出して仕入れ先をさがしたりと、店のために使っていた。夜になれば飲みに出かけたけど、それだって、気になっている店や名のある店に出向いて、視察あるいは勉強にあてていた。
昔から本を読むのが好きで、小説やら実用書やら、ジャンルを問わずに片っぱしから読んでいたが、その時間すら店を出してからはなくなった。たまにあっても手にするのは料理に関するもので、和洋中のレシピ本や、巨匠と呼ばれる料理人の伝記などを読んでは、自分の肥やしにしていた。
店を出す前は、波乗りや山登り、草サッカーなど、趣味も多かったが、それらもいっさいしなくなった。趣味とか遊びとか旅行にいくとか、そういうものはすべて捨てたのだ。自分の店を持つというのはそういうことだと思ったし、その覚悟がなければ店なんて出せないと思っていた。
立ちどまったら負けだと思っていた。店を大きくすること、地域で一番の繁盛店にすること、それだけを考えて生きていた。
実際、店は繁盛していたし、結果が伴うから長時間労働も苦じゃなかった。もっともっとがんばって、もっともっと店をでかくしよう、この先の人生、そうやって生きていこう、そう思っていた。
そんなふうに5年間をすごした頃、世界中でパンデミックがはじまった。新型コロナウイルスの感染拡大だ。
ぼくの店も、テイクアウト営業に切りかえたり、自治体の要請にしたがって営業時間の短縮を余儀なくされたり、通常どおりの仕事ができなくなった。築き上げてきたものが潰えてしまう不安を抱きながら、一方で長時間労働をまぬがれて、息をつく自分もいた。
不意に与えられた自由な時間で、ぼくは新しいメニューの試作をはじめた。多くは将来的にメニューとして出すための酒のつまみだったが、ときにはイタリアンや中華やエスニック料理など、ジャンルを越えたものもやってみた。ボルシチとかクリームシチューとか、何時間もかけて煮こむ本格的な料理にもチャレンジした。それはすごく楽しい時間だった。あらためて自分は料理が好きだと感じた。考えてみれば、こんなふうに創造的に料理するなんて長いことしていなかった。店を出してからずっと、つくってもつくっても消費されていくメニューを、ただただつくりつづけるだけの日々だったのだ。
また家族のために時間を使うこともできた。外出自粛など行動制限はあったけど、車で出かけたり、コーヒーを飲みながら話したり、近所を散歩したり、長い時間をともにできた。そうすることで相手も喜んだし、自分自身も気持ちが満たされた。とてもおだやかで、やさしい時間だった。
新しい趣味もはじめた。
ウイルスの感染が拡大したり落ちついたりがくり返される中、可能な範囲で何か楽しめることはないかと思いはじめたのが、去年の冬だった。ぼくはスキーをはじめた。屋外のスポーツだからウイルスの感染もしにくく、昔とった杵柄でふたたびスキーをはじめる中高年が増えた、というニュースを聞いて、ちょっとその気になったのだ。
ただぼくの場合は中高年ではあるものの「昔とった杵柄」ではなかった。小学生のときに一度、20歳のときに一度、無理やり連れていかれたことがあるだけで、まったくの初心者同様だった。50すぎの手習いにしてはハードルが高い気もしたが、とにかくやってみることにした。
……で、ハマった。泥沼だ。
そのシーズンは全部で9回スキーにいった。2シーズン目となる今シーズンは16回いった。何度いっても飽きない。それどころか益々ハマっていく。おそらく来シーズンもその次のシーズンも、体力がつづくかぎり同じペースでスキー場にかようだろう。
そんなわけで、今ぼくの店の定休日は、月曜火曜となっている。営業日の労働時間はあいかわらずだが、週に二日休むことで生活の質が向上した。もちろんその分、売り上げは減るけど、自分にとって何が大切かを考えたら、その時間は必要だ。
そう、自分にとって何が大切か……
店は大切だ。この仕事が好きだし、自分の店をもっとよくしたい気持ちはかわらない。だけどそれだけでいいのか。自分の店のために全力を注ぐだけの人生でいいのだろうか。
立ちどまったたら負けだ。
以前はそう思っていた。だから走りつづけた。この先もずっと走りつづけて、誰にも負けない自分になるんだと、そう思っていた。だけど……
誰かがいっていた。
I life moves pretty fast.
If you don’t stop and look around once in a while, you could miss it.
人生は早い。
時に立ち止まり、周りを見ないと、大切なものを見失う。
偶然に与えられた時間が、ぼくに立ちどまることを教えてくれた。コロナ禍で失ったものも多かったけど、一方で、たいせつなものに気づかせてもくれた。
定休日が二日もあるなんて、店を出した当初は考えられなかった。でも今は、休みが二日あることで、穏やかな気持ちになれる。やさしい心が持てる。仕事のうえでも同じだ。どこにも負けない店をめざすという勝負からおりたことで、お客さん一人一人に気持ちを注ぐことができるようになった。
5月の連休明けの定休日を最後に、今シーズンのスキーは終わった。ここから半年、ぼくはまた無趣味な人間になる。休みの日には、カフェで読書したり、まちを散歩したり、家族と出かけたり、友人と会って話したり、そうやって穏やかでやさしい時間をすごそうと思う。
大切なものを見失わないように。
人生は早いから。
父方の出身地である石川県珠洲市が震度6強の地震に見舞われた。去年の6月にも大きな地震があったが、今回のはそれよりも激しい揺れ方だったらしい。
珠洲市には従姉妹(といっても年齢は父と同じくらいで、その息子や娘すらぼくより年上だ)が二人いて、それぞれの家に電話した。一方は被害はなかったが、もう一方の家はかなりの被害があったという。その家は神社で、家屋だけでなく鳥居も倒壊したらしい。地震翌日の新聞の社会面にも名指しで載っていた。
幸い家族全員怪我などはなかったようだが、家の中はひっちゃかめっちゃかで、何から手をつければいいのかわからない状態だという。
何か力になれないものか。そうはいってもすぐにかけつけられる場所ではないし、仮にいけたとしても、余震がつづく今は、かえって迷惑なだけだろう。
見舞金を送ることにした。去年もそうした。そういうことを書くとちょっといやらしく思う人もいるかるしれないが、その感覚はたぶん日本人特有だろう。こまっている人がいたら助ける。当たり前のことだ。そのための道具なのだ、お金は。ましてや親戚なのだから、見舞金を送るのは当然のことだと思う。
父が生きていたら、きっと同じようにするだろう。今は父がいないのだから、息子のぼくがやらなくてはならない。
珠洲市は父の故郷であって、ぼくはそこで生まれたわけでも育ったわけでもない。だけど石川県は、父をふくめぼくの祖先が代々生きてきた地だ。そうぼくのルーツがそこにあるのだ。それに子どもの頃、夏休みのたびに遊びにいってた特別な場所でもある。子どもの頃のぼくや弟にとって、夏休みのその旅行は一番の楽しみだった。
大人になってから、つまり父がいなくなってからは足が遠かったが、それでも3度おとずれた。一度は母と二人で、一度は母と弟と三人で、もう一度は法事の際に一人でいった。
やっぱり懐かしかった。親戚たちも、家も、田んぼも、海も、山も、そのすべての匂いさえも、たまらなく懐かしかった。大好きな場所だと思った。
その大切な場所が被災した。
今なお余震がつづいているようだ。
心配だ。なのに何も力になれないのがもどかしい。
とりあえずお金を送ろう。あとは、これ以上、余震がつづかないよう祈るだけだ。
今回は私事の記事ですみません。読んでもあまりおもしろくなかったと思います。
代わりといってはなんですが、よろしければ、過去に、子どもの頃に石川県珠洲市を訪れたときの話を書いたので、ご一読ください。
↓
車の話〜スーパーカーへの思い
父の田舎〜スーパーカーへの思い②
父の田舎〜スーパーカーへの思い③
珠洲市には従姉妹(といっても年齢は父と同じくらいで、その息子や娘すらぼくより年上だ)が二人いて、それぞれの家に電話した。一方は被害はなかったが、もう一方の家はかなりの被害があったという。その家は神社で、家屋だけでなく鳥居も倒壊したらしい。地震翌日の新聞の社会面にも名指しで載っていた。
幸い家族全員怪我などはなかったようだが、家の中はひっちゃかめっちゃかで、何から手をつければいいのかわからない状態だという。
何か力になれないものか。そうはいってもすぐにかけつけられる場所ではないし、仮にいけたとしても、余震がつづく今は、かえって迷惑なだけだろう。
見舞金を送ることにした。去年もそうした。そういうことを書くとちょっといやらしく思う人もいるかるしれないが、その感覚はたぶん日本人特有だろう。こまっている人がいたら助ける。当たり前のことだ。そのための道具なのだ、お金は。ましてや親戚なのだから、見舞金を送るのは当然のことだと思う。
父が生きていたら、きっと同じようにするだろう。今は父がいないのだから、息子のぼくがやらなくてはならない。
珠洲市は父の故郷であって、ぼくはそこで生まれたわけでも育ったわけでもない。だけど石川県は、父をふくめぼくの祖先が代々生きてきた地だ。そうぼくのルーツがそこにあるのだ。それに子どもの頃、夏休みのたびに遊びにいってた特別な場所でもある。子どもの頃のぼくや弟にとって、夏休みのその旅行は一番の楽しみだった。
大人になってから、つまり父がいなくなってからは足が遠かったが、それでも3度おとずれた。一度は母と二人で、一度は母と弟と三人で、もう一度は法事の際に一人でいった。
やっぱり懐かしかった。親戚たちも、家も、田んぼも、海も、山も、そのすべての匂いさえも、たまらなく懐かしかった。大好きな場所だと思った。
その大切な場所が被災した。
今なお余震がつづいているようだ。
心配だ。なのに何も力になれないのがもどかしい。
とりあえずお金を送ろう。あとは、これ以上、余震がつづかないよう祈るだけだ。
今回は私事の記事ですみません。読んでもあまりおもしろくなかったと思います。
代わりといってはなんですが、よろしければ、過去に、子どもの頃に石川県珠洲市を訪れたときの話を書いたので、ご一読ください。
↓
車の話〜スーパーカーへの思い
父の田舎〜スーパーカーへの思い②
父の田舎〜スーパーカーへの思い③