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魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

旅について 遊びについて 夢について 人生観について 本について 愛用品について ありったけの思いを語ります

 

カウンターはぼくのステージだ〜またはYUKIの武道館ライブの話

先日のオフの1日。

日本武道館にライブを観にいった。YUKIのステージだ。JUDY AND MARY解散後ソロになって今年で20年、それを記念したツアーだ。

前々から楽しみにしていて、チケットもかなり前からとっていて、ついにその当日になって、ワクワクウキウキしながら九段下の日本武道館に向かった‼︎

……というわけではない。

チケットを入手したのは当日の早朝5時、チケジャムというサイトから、いけなくなった人のチケットを譲っていただいたのた。

で、ライブにいこう、ってことになったわけだ。いつものぼくのパターン。衝動的な行動だ。

降りしきる雨の中、日本武道館についた。人生初の武道館だ。

席は2階席の中央左よりで、まあわるくなかった。左右の人もそれぞれ一人で観にきてるらしく、何このおっさん一人できてるよ、って思われる心配もなくなった。

それにしてもすごい人の入りだ。満席、いや超満員だ。これだけの人を呼ぶのだから、ミュージシャンってすごいよなあ。いや、YUKIがすごいというべきか。

18時半、会場が暗くなり、すぐにスポットライトが走って、その先にYUKIが現れた。彼女のパワフルな声が響き出すと、客席のボルテージは一気に上がった。

そこからはもう駆け抜けるような2時間半だった。

途中、少しだけYUKIのMCがあったものの、ほとんど歌いつづけていた。本物の、プロフェッショナルのミュージシャンのステージがそこにあった。

MCでYUKIはファンに向けて、ありったけの感謝を伝えていた。これだけすごい数のファンがきてくれた喜びを、そのまま言葉にしていた。本当にうれしそうだった。感無量という感じがこっちにも伝わってきた。

で、また歌いはじめる。

完璧なステージだった。個人的にはとくに大ファンというわけでもないから(おいおい、野球観戦のとき→参照あの日の少年とおんなじかよ)、知らない曲ばかりだったけど、そのすごさはじゅうぶんに伝わってきた。たぶん、というか間違いなくゾーンに入っていた。

すごい眺めなんだろうなあ……

こうしたステージを観るたび、ぼくは向こう側から見る風景に思いを馳せる。この超満員の客席が、かれらにはどう見えるのか。今日のYUKIは、この風景をどう見ているのか、感じているのか。

最高な気分だろう。簡単な言葉だが、それしかない。今日の彼女の動きが物語っている。これだけのファンが自分のステージを観にきて、それに呼応して最高のパフォーマンスが生まれているのだ。

少しだけその感じはわかる。本当に少しだけだけど、本当に本当にスケールがちがう話だけど、ぼくにも同じような感覚がある。

自分の店が満席になったとき、カウンターから見るその風景はやっぱり気分がいい。せいぜい14、5人でいっぱいの小さな「箱」だけど、それでも席がうまったときの感覚は格別だ。

ゾーンに入ることもある。

ミュージシャンとちがって、客の注文に対してバタバタと動きまわるだけだけど、それでも「ノッテキタ」という感覚はある。料理をつくり、酒を注ぎ、余裕があればお客さんに声をかけ、そうやってバタバタと動きまわることが、ぼくにとってのステージなのだ。客はぼくの料理に満足し、その空間に感動し、元気になって帰っていく。それがぼくにも伝わり、さらに動きがキレキレになって、店内のボルテージは上がっていく。その感覚は、やっぱり最高の一言に尽きる。

そう、カウンターはぼくのステージなのだ。毎日の営業は、ぼくのライブなのだ。

YUKIや他のミュージシャンのように何万人も客は呼べない。だけどぼくの店は、ぼくのライブは、月曜と火曜を除いて毎日やっている。年間250のステージをこなしている。たったひとりで。

そうか、俺も向こう側の人間なんだ。そう思うと、ちょっぴりうれしくなった。

まあ、拙いライブかもしれないげど、お客さんに対する気持ちは負けない。チケットもいらない。少し入りづらいドアを開ければ、誰でも観れる。

そんなぼくのライブを、観にきてほしい。


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それでも生きていく

なかなか思うようにいかない日がつづいている。

秋がきて、少しはお客さんも増えてはきたけど、それでもまだ理想の感じにはほど遠い。このままずっとこんな感じなのか。そこそこの客の入りのまま冬がきて、そのまま冬が去って、いまいちパッとしないまま春になって、そしてまたあの夏がやってきて、閑古鳥が鳴くのか。考えれば考えるほど不安になる。

きてくれている人たちには、もちろん感謝している。いつもかよってくれる人も、はじめての人も、おいしかった、元気になった、と満足してくれて、そんな声にいつも救われている。必ずまた昔の活気が戻ってくるさ、と希望が湧いてくる。

それでもまた静かな夜がつづいたりすると、不安に押しつぶされそうになる。みんなどこへいったんだろう。あんなにもこの店を気に入ってくれていたのに、いったいどうしちゃったんだろう。自分の何がいけなかったのか、この店の何が気に入らなくなったのか、自分にはもう人を呼ぶだけの価値がなくなってしまったのか、そんなふうに自分を責めて、ひどく傷ついている。

そんな日々がもうずっとつづいているのだ。寒くなってきて、今までのマイナスを取り戻さなきゃと期待が大きい分、その期待に裏切られると、がっくりと落ちこんでしまう。

やめようか……

そんなふうに思うこともある。オープン以来、はじめての感情だ。やめたいわけではない。好きではじめた仕事だ。これからもずっとつづけていきたいに決まっている。だけど人から求められていないなら、やめるしかないではないか。

どの道、このままの状況がつづけば、いずれはやめざる得ないときがくるだろう。店が立ち行かなくなるか、自分の精神がやられるか、どちらかの理由で。

昨日も今日も、静かな夜だった。明日もまた同じなら、自分はもう耐えられないかもしれない。この季節に閑古鳥が鳴くおでん屋なんて、つづけていても意味がないのではないか。傷が浅いうちに、店をたたんだ方がいいのではないか。

自分はまた夢から見放されるのか。何の価値もないあの頃の自分に、また戻ってしまうのか……

生きていくのはつらいなあ、と思う。人生はつらいことばかりだ……



先日、地元の友人から連絡があった。訃報だ。同じ中学のY子が亡くなったという。彼女とはクラスが一緒になったことはないが、学校の廊下で話すくらいの仲ではあったし、成人してからも何度か一緒に飲んだこともある、とても明るい女性だった。

だから、その訃報は、かなりショックだった。

15年ほど前、中学の友人何人かと酒を飲んだとき、そのメンバーにY子もいた。その頃ぼくは仕事をやめたばかりで、新しい仕事について、彼女に相談にのってもらった。そんな記憶が蘇る。

「なんかさ、未知なる世界っていうの、そんな仕事をしたいんだよね。絵描きとかさ」
「道どん(ぼくのあだ名)、絵なんて描けるの?」
「描けない。美術も2だったし」
「じゃあ駄目じゃん」
「今からやってみたら、もしかしたら才能があるかもしれないじゃん」
「ええっ、今から? 私たち何歳だと思ってんの?」
「そういう 固定観念がよくないと思うんだよ」

馬鹿みたい、と笑いながらも、Y子はいった。

「でも道どんなら、今からでも何か突拍子もないことしでかすかもしれないね。何かそんな雰囲気持ってるよ」

絵描きにはならなかったが、その後ぼくは40歳をすぎてから料理の道に入った。そして今、小さいながらも店を持った。これもY子がいっていた「突拍子もないこと」になるのだろうか。

そんなことをぼんやりと思い出すと、無性に悲しくなった。

同時に、どうしてぼくは生きているんだろう、生かされているんだろう、と不思議な気持ちになる。自分がまだ生きることを許されている意味は何だろう。

まだまだやることがあるのだろうか。

通夜は水曜日におこなわれた。店があるから、ぼくは欠席した。かわりに弔電を送った。ぼくの言葉は、Y子に届いただろうか。

翌日、友人から電話があり、無事通夜が終わったと告げられた。

「みんなきてたか?」
「ああ。けっこうきてたよ」

そういって友人は、出席した仲間たちの名を挙げた。

「それだけきてれば、Y子、寂しくなかったよな?」
「大丈夫だよ」
「おれもいきたかったな」
「しょうがねえよ。店があるんだ。店は休んじゃ駄目だよ」

じゃあまた、といって電話を切った。

店は休んじゃ駄目だよ。その言葉が、不思議とY子からの言葉に感じた。

Y子が、遠くからぼくを叱咤しているんだ、と思った。

簡単にいうなよ、とぼくは心の中でつぶやく。気楽に見える仕事かもしれないけど、なかなかきついんだよ。思うようにお客さんもこなくてさ、こっちがどんなに尽くしても、すぐにみんなこなくなっちゃうんだ。おれの料理がまずいのかな。それともおれ自身が人から嫌われる感じなのかな。がんばってるんだけどな。なんかもう疲れちゃったよ……

涙が出た。それが死んでしまったY子への涙なのか、情けない自分の現状に対してなのか、わからないけど、涙が出て、とまらなくなった。

天職なのかなと思ってたんだけどさ、そうじゃなかったのかもな。好きだけでうまくいくほど、人生は甘くないんだな……

でもまだ道どんの人生は終わってないでしょ!

Y子の声が聞こえる。いや、Y子ならそういうだろうと、ぼくが思っただけかもしれない。

生きてるんだから、つらいことがあるのはあたりまえでしょ! あんたの仕事はさ、そういうつらいことがあった人を元気にすることじゃないの! あんたが弱音吐いてどうすんのよ!

Y子の声が、もう聞こえないはずのY子の声が、心に刺さる。そうだよな。生きてるんだから、つらいことだってあるよな。それも含めて、生きてるってことだもんな。そうか、Y子はもう、つらいって感じることさえないんだもんな……

そうだよ、道どん。あんたまだ生きてるんだよ。まだ何だってできるんだよ!

そうだよな。おれはまだ生きてるんだもんな。やることはまだまだ山ほどあるよな。弱音を吐いてる場合じゃない。つらいけど、やるしかないんだ。なあY子、きみはしばらく空にいるのかな。そこから、おれのことが見えるかな。見えるならさ、おれがまた弱気になったらそこから叱ってくれよ。生きてるんでしょ、甘えないでよ、って、大きい声で叱ってくれよ……

Y子の声はもう聞こえなかった。ぼくは、ありがとう、と空に向けていった。

これから冬になる。おでんが恋しい季節になる。思うようにお客さんがきてくれるか、考えると不安になるけど、ぼくは負けない。がんばってがんばってがんばって、不安になってる暇がないほどがんばって、身体がぶっ壊れるくらいがんばって、神様が参った、っていうくらいがんばって、すっ転んだらすぐに起き上がって、下を向かずに前だけを見て、歯を食いしばって、どんなにつらくても客の前では笑って、がんばってがんばってがんばってがんばって、生きてやる。

生きてやる。

それだけやって駄目なら、そのときはそのときだ。

スパッとやめて、突拍子もないことしでかしてやるよ。

絵描きとか、な。

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自分の道を歩く


何年かぶりに、この古いブログを開いている。

読み返すと不思議な気分になる。まだ未熟な、もちろん今だってまだまだ未熟だけれど、それよりさらに数段未熟な自分がにいる。ここで、この古いブログの中で、確実に生きている。生きて、馬鹿みたいに叫んでいる。

これを書きはじめた頃のぼくは、人生のどん底にいた。夢にやぶれ、真っ当な仕事に就いたもののその仕事にも挫折し、先が見えない不安と戦っていた。そこから立ち上がり、どうにか人生を取り戻そうと、悪戦苦闘していた。その軌跡が、この古いブログにつづられているのだ。

たとえば2012年8月、こんな記事を書いている。→あの頃ぼくらは夢の奴隷だった

そう、この記事にあるように、あの夏、ぼくは自分の店を持とうと決めた。経験も貯金もない、ゼロからのスタートだった。

あの夏から10年、ぼくは自分の店を持った。おでん屋だ。千葉県のとある下町に根づいて7年、小さい店だが、まあまあ繁盛している。

もちろんつらいこともある。体力的にもきつい日々だ。少しでも気を抜けば客はすぐに離れていくし、そうでなくても景気や天候にも左右される、そんな厳しい世界だ。今日がよくても明日も大丈夫だという保証はない。先が見えないのは、あの頃と同じなのだ。

だけどあの頃とちがって、今のぼくには道がある。

つらくてもきつくても、この店をつづけていくという道があるのだ。それがこの10年で手に入れた一番の収穫だ。

正直なところ、店の現状は厳しい。パンデミックがはじまる前はほとんど毎日満席になっていたのに、今はその状況にはほど遠い。閑古鳥が鳴く日も珍しくない。

それでもぼくには道がある。

だから迷わない。下を向いている時間はないのだ。ただただこの道を歩いていく。前を見て、一歩一歩進んでいく。

大丈夫、道はあってる……

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決意の日から1年が経って

去年の8月、ぼくは、自分の店を持とうと決めた。
その頃に書いた記事を読み返しつつ、この1年を振り返ってみた。

2012/8/10「ぼくだけのオリンピック~ロンドンオリンピック開催中の今、語りたいこと」
2012.8.18「終戦記念日に靖国神社にいってきた」
2012.8.22「あの頃ぼくらは夢の奴隷だった~またはブログ休止のお知らせ」

決意して直後の8月の末に某居酒屋チェーン店で働きはじめ、すぐに何も学べないと気づいて退職した。そして9月におでん屋の老舗の看板を持つ店での修業がはじまった。雇い主であり、生まれてはじめての師でもあった店長のもと必死で働いた。日中の仕事(食品の仕分け)とのかけもちは正直つらかったけど、自分の目標に向かって着実に進んでいると思うと、そのきつさにも耐えられた。

暮れに店長が病に倒れて入院し、店を長期休業することとなった。その頃、食品の仕事もやめていたぼくは、店が再開するまでのツナギでホテルの宴会サービスの仕事についた。軍隊のように厳しいホテルでの業務は、心が折れそうになることもしばしばあったけど、その分、技術的にも精神的にも鍛えられた。

やがて店長が退院し、2月の終わりに店の営業を再開した。同時に、朝5時から昼前までのセミナーハウスでの朝食バイキングの仕事も得て、ふたたび二つの仕事をかけもちするタフな修業の日々がはじまった。

この頃から店長が亡くなる5月半ばまでが、ぼくにとって最も濃密な時間だったと思う。

店長は、もうじき消えてなくなる命を削るようにして、ぼくと、店の跡取りとなる息子のNさんに仕事を伝授した。ふらふらの身体で、でき得るかぎり店に立ち、Nさんにはこの店で出す一品料理のつくり方や仕こみの手順、仕入れのやり方などを、ぼくには自分の店を持つために、店をやっていくために、必要となる技術や心構えといったありとあらゆるものを教えてくれた。それは口頭で教えてくれたこともあったし、態度で示してくれたこともあった。

今、ぼくらは店長亡き後、必死に店を守っている。ぼくら2人の素人料理人と、店長の娘のMさんと、アルバイトのHさんとの4人で。はじめは不安な船出だった。奇跡への挑戦だった。常連客に叱咤されながら、必死に店をつづけていった。味がかわったといわれないように、サービスが落ちたといわれないように、客足が遠のくことがないように……。

そのがんばりが身を結んだのか、あるいは店長が見守っていてくれているのか、おかげさまで店は今も客足が途絶えない。地域で1、2を争う繁盛店としてやっていけている。それは自分1人の力では決してないけれど、それでもやっぱり自信につながる。



今日は8月15日。終戦記念日だ。店がお盆で休業なので、例年どおり靖国神社に参拝にいけた。今年は1日前倒しして、14日にいってきた。

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去年と同様、英霊たちに語りかける。俺はやります、と。

不安で、だけど希望に満ちていた去年の同じ日から早1年、自分なりにやってきた結果が自信につながっている。

だけどまだこれからだ。

自分の店を持つまでの道のりは、まだ遠くけわしい。



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我が青春のチェッカーズ

いつも車を運転しながら聴くAMラジオ、とくに好きな番組が平日の午後1時から放送している上柳昌彦「ごごばん」だ。日中のセミナーハウスの仕事と夜のおでん屋の仕事のはざまの時間に放送しているこのラジオ番組の、ぼくはヘビーリスナーだ。

その「ごごばん」に、今週月曜、藤井フミヤがゲストで出演した。そのときの放送の一部が、YouTubeにアップされていたので紹介する。



ううん、フミヤ、カッコイイ……

今50歳、もうじき51歳になるという。いい年の取り方をしていると思う。いや、全然、年を取ってる感じがしない。年齢などどこ吹く風で、ただ自由に人生を歩いている、そんな感じだ。

何がカッコイイって、かれはあまりチェッカーズ時代の話をしない。笑い話の一つとして当時のことを振り返ることはあるが、過去の栄光にすがることはいっさいしない。数年前に、バンド名をそのままタイトルにした暴露本を発表した元メンバーとは、その点で大きく異なっている。

同じような例で、志村けんと加藤茶の2人が挙げられる。ドリフ時代の栄光にすがることなくつねに新しいものを生み出そうとしている志村けんと、いまだに「カトチャン、ペッ」で小金を稼ごうとする加藤茶、どちらが男として尊敬できるかは、いわずもがなだ。

で、フミヤがゲスト出演した「ごごばん」だが、翌火曜日には、元チェッカーズのリーダー武内享がゲストにきた。当時のチェッカーズファンにはたまらない展開だ。

そしてこの武内享も、年齢を超越したいい生き方をしているようだった。しかもかれらは解散後20年経った今も、仲間としてつながりを保っているらしい。フミヤの弟の尚之の名も会話に挙がってきて、当時のメンバーといまだ深いつき合いをつづけていることがうかがえた。

チェッカーズとともに10代をすごしたぼくとしては、この上なくうれしい。

えっ? 男のくせにチェッカーズのファンだったのか、って?

ファンではない。ファン以上の存在だった、そういえるだろう。

チェッカーズが「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたのは1983年9月、当時ぼくは中学3年生だった。アイドルともミュージシャンともとれるこの異色のバンドは、テレビにではじめたときこそ、「何だ、このチャラチャラした連中は? 気にいらねえぜ」という感じだったが、売れつづけていくうちに、何となく心に受け入れられるようになった。

単純に、曲がよかったのかもしれない。聴き心地がよく、そして口ずさみやすい、チェッカーズのうたには、そんなわかりやすさがあった。

だからといって、レコードを買ったり、FMからカセットにダビングしたりするほどではなかった。だけど、何かといえばチェッカーズのうたをよくうたった。ふろ場でとか、チャリンコに乗っているときとか。それだけに飽き足らず、学校の休み時間に教室でうたうようにもなった。デッキ箒をスタンドマイクがわりにして。

それは高校に進学してからもつづいた。

いや、高校に入ってからはもっとエスカレートした。派手なことが大好きだった当時のぼくは、チェッカーズが新曲を出すたび、学校の廊下でゲリラライブをやったのだ。

「哀しくてジェラシー」「星屑のステージ」「「ジュリアに傷心」「あの娘とスキャンダル」「俺たちのロカビリーナイト」「HEART OF RAINBOW」……
※「星屑のステージ」「あの娘とスキャンダル」は、それぞれ夏休み、春休み中にレコードが発売されたため、新学期がはじまった後にゲリラライブを敢行した。

そして、高校2年生の秋、修学旅行で出かけた九州で、ぼくはこの1人チェッカーズライブの集大成を迎えたのだった。

何泊目かは忘れたが、宮崎の旅館で、夕食後にクラスごとの発表会をやる、ってのがあった。それを旅館のスタッフが審査して1位から3位までのクラスを表彰するのだ。かったるい企画だったが、いちおうはどのクラスもまじめにやった。

で、その発表会の席で、すべての出し物が終わった後、悪乗りした生徒の1人が、ぼくの名前をコールし出したのだ。その声を皮きりに、ぼくのコールは巨大な波となった。

そのコールに、ぼくは答えた。

うたったのはチェッカーズの「神様ヘルプ!」だ。

こんな歌だ。



うたい終えたときにわき起こった拍手と口笛が、ものすごく快感だった。おまけに、各クラスの出し物の1位から3位の発表の後に、旅館側から特別賞をいただいた。学校の先生たちから落ちこぼれとしてしか見られていなかったぼくにとって、大人の人からはじめてみとめられた感じがして、ぼくはうれしかった。

忘れられない思い出だ。

そのライブ(?)を最後に、その後ぼくが学校でチェッカーズのうたをうたうことはなくなった。何となく飽きてしまったのだ。ほかにも熱中することが山ほどあったし、それにあの旅館のステージでうたったとき以上の快感が、学校の廊下で得られるとは思えなかったし。

そうしていつしか、チェッカーズのうたを聴くことも減っていった。「神様ヘルプ!」以降の曲は、あまりおぼえていない。

それでもぼくにとってチェッカーズは、青春(死後)時代のアイドルだったことはまちがいない。

そしてそのメンバーだったフミヤや享が、当時を振り返ることなく活動をつづけていることをうれしく思う。

ぼくもかれら同様、過去にすがることなく、未来に向かって今を生きよう、ラジオを聴いてそう思った。

もっとも、ぼくにはすがりたくなるような過去の栄光など一つもないけど。


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