ある日、ぼんやりと本屋に立ちよると、「世界でいちばん好きな場所」という言葉が目に飛びこんできた。
雑誌「PEN」の企画だ。旅を愛するあの人が教えてくれました、と副題がついている。
その雑誌を手に取り、パラパラとめくってみた。表紙のモデルにもなっている成海瑠子をはじめ各界の著名人が、それぞれの「世界でいちばん好きな場所」を紹介している。
パリ、イスタンブール、マドリッド、台北、ホーチミン、カンボジアのシェムリアップ、ベネチア、ボラボラ島の水上コテージ、渋谷、西新宿の高層ビル街、自宅の裏庭など、あらゆる場所が、そのエピソードとともに語られていた。
ぼくはその本を買うと、自宅の部屋で斜め読みした。そして、自分はどこか、と考えた。ぼくの「世界でいちばん好きな場所」とはどこなのか。
単純に、その場所の魅力だけで語るなら、かつて旅した場所から、オーストラリアのバイロンベイとか、カンボジアのシェムリアップとか、ベトナムのメコン川流域の村々とか、ネパールのカトマンズとか、そんなところが挙げられる。とくにカトマンズはものすごく好きな場所だ。ネパールは、ほかにもポカラやエベレスト街道沿いの村々とか、いろんな場所にいったし、それらの場所の方が人の印象や出来事などにいい思い出がつまっているのだが、それでもカトマンズのあの混沌とした雰囲気がすごくおもしろかった。毎日毎日、朝からただ歩くだけで、おもしろいこと、刺激的なこと、摩訶不思議なことなどが、ガシガシと目に飛びこんできて、歩きたい、歩いて歩いていっそ迷ってしまいたい、そう思ってしまうのだ。
だから、ただ場所の魅力だけで語るなら「カトマンズ」を挙げるだろう。あるいはオーストラリアのバイロンベイ。あそこで一生、波乗りばかりして暮らせたら幸せだろう。
だけど、ちょっと違和感がある。場所だけの記憶で、「世界でいちばん~」を語っていいものなのか。
旅とか、あるいは場所とか、そういうものってもっとソウルフルなものだと思う。
カトマンズはたしかにおもしろい街だけど、そこがぼくという人間に何を与えたかといえば、それはただ単に「おもしろかった」という思い出だけしかない。バイロンベイにしても、ただそこがサーファーにとって天国のような場所で、ぼくもそこで楽しいサーフトリップができた、というだけのことだ。
そうじゃなくて、もっと自分に影響を与えた場所こそが、「世界でいちばん~」の定義にあてはまる気がする。
そういう点でいえば、同じネパールでも、高山病にかかりつつ歩きとおしたエベレスト街道は、確実に自分にとって貴重なものだし、オーストラリアなら、バイロンベイがある東側の海ではなく、西側の海にこそぼくの魂の故郷がある。
この本でも、そういう観点から「世界でいちばん~」を選んでいる人もけっこういる。場所で選ぶ人と、自分の心とのつながりで選ぶ人と、だいたい半々くらい。
ぼくは後者で選びたい。
そうなると、オーストラリアの西海岸か、エベレスト街道か、あるいは生まれた場所である雑司が谷か、幼少期をすごした千葉県鎌ケ谷か、自分のルーツがある石川県珠洲市か、このブログでもたびたび登場する勝浦か、そのどれかだろう。
何てことを考えながらページをめくり、その答えが見つからないまま雑誌を読み終えた。ここに登場する人たちは、仕事とはいえ「世界でいちばん~」をよく一つの場所にしぼれたものだ。
ぼくにはとてもできない。
だが後日、不意にその場所がわかったのだ。
ぼくの「世界でいちばん好きな場所」が。
札幌だ。
高校を出てすぐに暮らしはじめた場所、家族のもとを離れてはじめて1人になった町。札幌こそが、ぼくにとっての「世界でいちばん好きな場所」なのだ。
今でも、札幌を思うと、胸がキュンとくる。キュンと切なくもなるし、シャキっと背筋ものびる。そんな場所だ。その後も何度かおとずれたが、あの街に一歩足を踏み入れるだけで、簡単に当時にタイムスリップできるのだ。18歳のぼくと今のぼくをリアルにつなげてくれている。
街そのものの感じも好きだ。大都市だけど、どこか温かみのあるし、季節感もある。心にしみる風景なのだ。
そんなわけで、ぼくにとっての「世界でいちばん好きな場所」は、札幌だ。
だから何? っていわれたらそれまでだけど……
みなさんにとっての「世界でいちばん好きな場所」はどこですか?
雑誌「PEN」の企画だ。旅を愛するあの人が教えてくれました、と副題がついている。
その雑誌を手に取り、パラパラとめくってみた。表紙のモデルにもなっている成海瑠子をはじめ各界の著名人が、それぞれの「世界でいちばん好きな場所」を紹介している。
パリ、イスタンブール、マドリッド、台北、ホーチミン、カンボジアのシェムリアップ、ベネチア、ボラボラ島の水上コテージ、渋谷、西新宿の高層ビル街、自宅の裏庭など、あらゆる場所が、そのエピソードとともに語られていた。
ぼくはその本を買うと、自宅の部屋で斜め読みした。そして、自分はどこか、と考えた。ぼくの「世界でいちばん好きな場所」とはどこなのか。
単純に、その場所の魅力だけで語るなら、かつて旅した場所から、オーストラリアのバイロンベイとか、カンボジアのシェムリアップとか、ベトナムのメコン川流域の村々とか、ネパールのカトマンズとか、そんなところが挙げられる。とくにカトマンズはものすごく好きな場所だ。ネパールは、ほかにもポカラやエベレスト街道沿いの村々とか、いろんな場所にいったし、それらの場所の方が人の印象や出来事などにいい思い出がつまっているのだが、それでもカトマンズのあの混沌とした雰囲気がすごくおもしろかった。毎日毎日、朝からただ歩くだけで、おもしろいこと、刺激的なこと、摩訶不思議なことなどが、ガシガシと目に飛びこんできて、歩きたい、歩いて歩いていっそ迷ってしまいたい、そう思ってしまうのだ。
だから、ただ場所の魅力だけで語るなら「カトマンズ」を挙げるだろう。あるいはオーストラリアのバイロンベイ。あそこで一生、波乗りばかりして暮らせたら幸せだろう。
だけど、ちょっと違和感がある。場所だけの記憶で、「世界でいちばん~」を語っていいものなのか。
旅とか、あるいは場所とか、そういうものってもっとソウルフルなものだと思う。
カトマンズはたしかにおもしろい街だけど、そこがぼくという人間に何を与えたかといえば、それはただ単に「おもしろかった」という思い出だけしかない。バイロンベイにしても、ただそこがサーファーにとって天国のような場所で、ぼくもそこで楽しいサーフトリップができた、というだけのことだ。
そうじゃなくて、もっと自分に影響を与えた場所こそが、「世界でいちばん~」の定義にあてはまる気がする。
そういう点でいえば、同じネパールでも、高山病にかかりつつ歩きとおしたエベレスト街道は、確実に自分にとって貴重なものだし、オーストラリアなら、バイロンベイがある東側の海ではなく、西側の海にこそぼくの魂の故郷がある。
この本でも、そういう観点から「世界でいちばん~」を選んでいる人もけっこういる。場所で選ぶ人と、自分の心とのつながりで選ぶ人と、だいたい半々くらい。
ぼくは後者で選びたい。
そうなると、オーストラリアの西海岸か、エベレスト街道か、あるいは生まれた場所である雑司が谷か、幼少期をすごした千葉県鎌ケ谷か、自分のルーツがある石川県珠洲市か、このブログでもたびたび登場する勝浦か、そのどれかだろう。
何てことを考えながらページをめくり、その答えが見つからないまま雑誌を読み終えた。ここに登場する人たちは、仕事とはいえ「世界でいちばん~」をよく一つの場所にしぼれたものだ。
ぼくにはとてもできない。
だが後日、不意にその場所がわかったのだ。
ぼくの「世界でいちばん好きな場所」が。
札幌だ。
高校を出てすぐに暮らしはじめた場所、家族のもとを離れてはじめて1人になった町。札幌こそが、ぼくにとっての「世界でいちばん好きな場所」なのだ。
今でも、札幌を思うと、胸がキュンとくる。キュンと切なくもなるし、シャキっと背筋ものびる。そんな場所だ。その後も何度かおとずれたが、あの街に一歩足を踏み入れるだけで、簡単に当時にタイムスリップできるのだ。18歳のぼくと今のぼくをリアルにつなげてくれている。
街そのものの感じも好きだ。大都市だけど、どこか温かみのあるし、季節感もある。心にしみる風景なのだ。
そんなわけで、ぼくにとっての「世界でいちばん好きな場所」は、札幌だ。
だから何? っていわれたらそれまでだけど……
みなさんにとっての「世界でいちばん好きな場所」はどこですか?
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NHKの「世界ふれあい街歩き」を観た。
場所はアデレード。オーストラリア連邦南オーストラリア州の州都だ。オーストラリア各州の州都の中では5番目の規模の街で、文化と芸術の都としても知られている。
この番組の特徴は、行きあたりばったりに路地や店や市場などをめぐり、偶然出会った人たちとのやりとりを放送していることだ。つまり観光名所の紹介よりも土地の人の暮らしぶりに重点をおいている。それについて賛否両論はあるようだが、ぼくはそのスタイルが好きで、ほぼ毎週この番組を観ている。
今回の放送も観光名所の紹介はなく、ただ漠然と街を歩き、そこに暮らす人たちと会話をかわすだけに終始した。
番組を観ながら、ぼくは遠い昔の日々を思い出していた。アデレードですごした日々の思い出。ワーキングホリデー(注1)で1年間オーストラリアを旅した中で、2週間ばかり滞在した町だ。渡豪から2カ月目のことだった。その頃ぼくは22歳で、自分が何者で、どう生きていけばいいのかすらわからない若造だった。
(注1) 二国間の協定に基づいて、青年(18歳~25歳または30歳)が異なった文化(相手国)の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労をすることを認める査証及び出入国管理上の特別な制度。日本政府とワーキング・ホリデー査証(ビザ)に関する取り決め又は協定を結んでいるのは発効順にオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド、デンマーク、中華民国(台湾)、香港の11か国だが、ぼくがこの制度を利用した当時は、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの3カ国のみだった。
訪れたことがある街だったものの、放送を観ても、おぼえている場所は一つもなかった。ぼくが訪れたのはふた昔も前だし、滞在中も仕事さがししかしなかったので、とくに印象に残る場所がないのだ。
それでも思い出が一つもないわけではない。
ぼくにとってのアデレードの思い出といえば、やっぱりパトリックだろう。通称パティ。29歳(当時)のオーストラリア人だ。
パトリックと出逢ったのは、街のバックパッカーズ(ドミトリー形式の安宿)だった。夜行バスでアデレードにつき、その宿に滞在して2日目の朝に、ピノキオを思わせる小男がやってきて、うちにこないか、と誘ってきた。それがパトリックだった。
「アデレードには何日くらい滞在するの?」
「わからない。仕事をさがしにきたんだ。見つかるまでいるし、見つかったらずっと住むし」
「だったらこんなタコ部屋じゃなく、ぼくのうちにきなよ。1週間で50ドルでいいよ」
後でわかったことだが、かれは軽度の知的障害者で、定職がないかわりに、アデレードに滞在する日本人を格安で自宅に泊めることで、生活費をまかなっているらしかった。といっても悪知恵からの行為ではなく、純粋に日本人が好きなのだ。同じオーストラリア人とでは話が合わないが、英語をろくに話せない日本人となら、友情が成立するのだろう。
パトリックの家は、アデレード郊外にあった。平屋建ての3LDKだった。
部屋をあてがわれ、早速、仕事を得るための作戦を練った。アデレードには多くの飲食店があるし、郊外にいけばワイナリーもある。そのうちのどこかに雇ってもらおうと思っていた。
不意にパトリックが部屋に入ってきて、動物園にいこうよ、と誘ってきた。そんな気分ではなかったし、一日も早く仕事を得たかったので、ぼくはすぐさまノーと答えた。
「動物園、嫌いなの? それじゃ映画にする?」
「いや、映画にもいかない」
「映画も嫌いなの? だったらどこにいく?」
「どこにもいかない。仕事をさがすんだ」
ぼくはかれに、自分がこの町にきた目的を話した。はじめに逢ったときにも話したつもりだったが、伝わっていなかったようだ。オーストラリアにきて1カ月は経っていたとはいえ、そのときのぼくの英語力はまだ乏しかった。
結局その日は動物園にいくことになった。すぐに仕事さがしをはじめたいのはやまやまだったが、これからしばらくお世話になるのだから、初日くらい家主であるこの男につき合うのが人情だと思ったのだ。
だがそれがまちがいの元だった。
その後もぼくはパトリックのペースにハメられっぱなしで、あちこちに引きずりまわされた。博物館、美術館、映画、ビーチ……。おそらく今まで自分の家に泊めた日本人をつれていき、喜ばれた場所なのだろう。マサは絵が好きだった、コージは海が好きだった、ヒトミは映画がいい英語の勉強になるといっていた、行く先々でそんなことをぼくに話していた。ぼくからすれば、マサって誰だよ、って話だし、それに仕事をさがすことで頭がいっぱいだったから、どこへいっても心から楽しめなかった。
今日こそはきっぱりと断って仕事さがしをしよう。朝、起きるたびにそう誓うのだが、朝食の席でパトリックと向き合い、いつもどおりの子どもじみた会話がはじまり、さて今日はロフティマウンテンにでも行かない? と切り出されると、どうにも断れなくなるのだ。
それは、パトリックの独特のペースにハマってしまっている、というだけでなく、ぼくが心のどこかで仕事さがしをしたくないと思っていたからだろう。
アデレードにくる前にすごした町で、ぼくは1週間、ずっと仕事を断られつづけた。パブやレストランはもちろん、ホテル、スーパー、本屋、雑貨屋……、バイトの募集の有無にかかわらず一軒一軒飛びこみでたずね、すべて断られた。郊外の農場にも足を運んだ。ブドウ畑、リンゴ畑、綿花畑、牧場……、ハイウェイ沿いに横たわる農園という農園をたずねてまわったが、すべて断られた。何でもやります、体力もガッツもあります、だから雇ってください、たどたどしいぼくの英語に首を縦に振る人はいなかった。朝から夕方まで、ずっと「ノー」といわれつづけたのだ。それが1週間つづいた。つらかった。身も心もボロボロに疲れ果て、ぼくはその町をあとにしたのだった。
アデレードは大きな街だし、周囲にたくさんのブドウ畑やワイナリーがあるから、必ず仕事は見つかるだろう。そう思い、長距離バスに揺られてやってきたのだが、巨大な街を前にして臆してしまったのだ。それでパトリックの誘いに乗り、毎日ぶらぶらと遊んで暮らした。
1日どこかで遊んだ後、ときおりパトリックは、かれの実家にぼくをつれていった。物静かだがやさしい父親と、底抜けに明るい母親、それとその家にホームステイしている日本人の女の子が、その家に住んでいた。パトリックの両親は10年以上も日本人のホストファミリーをやっているようだった。かれの日本人好きは、そこからきているのだろう。
つきあっていくうちに気づいていたが、パトリックが軽度の知的障害者であることは、かれの母親から聞いた。べつに何でもないことだという口調で。ぼくにしてもべつにそれを知ってどうも思わなかった。差別もしなければ、同情もしなかった。見下すこともしなかったし、区別して考えることもしなかった。それはつまり、障害者だからつきあいたくないとか、逆に障害者だからつきあってあげなきゃならないとか、そういう考えもしないということだ。いいやつなら友達としてつきあうし、いやなやつだったりウマがあわなかったりすればつきあわない。今でもぼくには障害を持った友人が何人もいるが、その気持ちはかわっていない。
パトリックはいいやつだった。こっちの気分に関係なくマシンガンのように話しかけてくるのには辟易するが、それ以外の面ではウマが合った。だから今後もつきあっていきたいと思った。かれの障害など、特徴の一つにすぎなかった。
アデレードにきて5日目、ぼくはようやく仕事さがしをはじめた。持ち金が減っていき、さすがに尻に火がついたのだ。だけどそれだけではなかった。何としてでもアデレードで仕事を得たかったのだ。パトリックという友達がいるアデレードで。
だがここでも仕事さがしは難航した。今はどうなのか知らないが、当時のアデレードは街全体が日本人を嫌っていたのだ。街のいたるところに「NO JAP」という落書きがあったし、やんちゃな感じの若者に「ジャップ」と声をかけられることもあった。飛びこみでたずねた店の主に「日本に帰りやがれ」と汚くののしられたことも何度かあった。夜、裏通りを歩いていて、車の助手席から水をぶっかけられたこともあった。
それでも必死に仕事をさがしつづけた。とにかく何でもいいから働きたかった。とりあえず食っていけるだけの賃金がもらえるなら、どんなクソ仕事だってかまわなかった。
そんなある朝、ぼくはパトリックと喧嘩した。
喧嘩というより、ぼくが一方的にどなり散らしたのだ。
それはやつあたり以外の何物でもなかった。仕事が見つからず、そればかりかときに口汚い言葉でののしられ、ぼくは知らず知らずのうちに心がすさんでいたのだ。それに対する鬱憤を、能天気な知的障害者であるパトリックにぶつけてしまったのだ。
「シゲル、何をそんなにいらついてるんだい。ハハハ。スマイルスマイル、ハハハ。ところで、今日はどこにいく?」
「仕事さがしだ」
「仕事? ハハハ。仕事するの?」
「そうだよ。もう何度も説明しただろ。何度もな。ナ・ン・ド・モ」
「ハハハ」
「……」
「今日はさ、映画にいかない? おもしろそうなコメディーがあるんだ。ハハハ。いこうよ。ハハハ」
「いかないっていってんだろっ」
「どうして?」
「なぜなら、仕事をさがしにいくからだ」
「コメディー映画を観れば楽しい気分になるよ」
「ならねえよ。それに映画代もねえし」
「ハハハ。映画代ないの? ハハハ。ビンボーだ。ビンボー。日本語。アキが教えてくれたんだ。ビンボー、ビンボー。合ってる?」
「黙れっ」
「えっ?」
「黙れよ、△×野郎。おまえと話してると頭がへんになるぜ」
「どうして?」
「疲れるんだよ、朝からぺちゃくちゃやられるとよ」
「何を怒ってるんだよ」
「怒ってなんかいねえよ」
「スマイル、スマイル。ハハハ。早くご飯食べて、コメディー映画に……」
「いいか、聞けよ。俺は映画にはいかない」
「なぜ?」
「なぜかって? オーケイ。もう一度だけ教えてやる。それはな、仕事さがしにいくからだ」
「仕事? どうして?」
「金がないからだ。生活費が必要だからだ。いいか、俺はおまえみたいに、何にもしないでも国が保障してくれる人間とはちがうんだ。自分で働いて、生活費を稼がなくちゃならないんだよ、おまえとちがってな」
パトリックはきょとんとした顔をし、その後に、ハハハ、と笑った。苦笑いのような照れ笑いのような、寂しげな笑い方だった。
その喧嘩を境に、ぼくらの関係はぎくしゃくしたものとなった。いや、パトリックの方には変化はなかった。ぼくが一方的にかれに嫌悪感を抱いてしまったのだ。いいやつだ、という気持ちにはかわりなかったが、四六時中マシンガンのように話しかけられるのにはもう我慢ができなくなった。一言でいうとウザいのだ。一度毒を吐いたことで、その思いに歯止めが利かなくなってしまったのだ。
ぼくはなるべくパトリックに話しかけられないよう、常に忙しいふりをした。意味もなくノートを開いて何やら書きこんでみたり、日本語の本を熱心に読みふけったりした。それでもかれは話しかけてきたが、ちょっと今忙しいんだ、といってかわすようになった。
仕事が得られていたら、あるいはかれの能天気なマシンガントークを楽しめたのかもしれない。だが仕事は見つからなかった。これ以上アデレードにいつづけていても無意味だと思い、ぼくは旅立つことにした。確実に仕事が得られる町にいこうと思ったのだ。ゴールドコーストなら日本人相手の仕事が掃いて捨てるほどあると聞いていた。
ぼくは荷物をまとめ、パトリックに別れを告げると、ゴールドコーストに向かう長距離バスに乗った。
パトリックとは、その後一度も逢っていない。
「世界ふれあい街歩き」で観るアデレードは、ぼくが知らない街のようだった。映像の中の建物のいくつかは、おそらく仕事を得るために飛びこみで訪ねたと思うが、どれも印象には残っていない。
だけど、やっぱり懐かしさはあった。
それは、街いく人々の誰もが人生を楽しんでいる、あの国特有の明るさだ。
人生は長くて深いものだから、悩みや問題を抱えていない人などいない。それでもあの国では、誰もがそんな様子をおくびにも出さず、明るく生きていた。
パトリックだってそうだったのだ。
本人がそれを自覚していたかどうかは知らないが、脳に障害を持っているのだから、その苦労は並大抵のものではなかったはずだ。それでも明るく生きていた。人生を楽しんでいた。
それに比べてぼくは……
そんなふうに自分を責めるのはよそうと思う。あの頃は必死だったのだ。あの国で何かをつかんでやろうと必死に生きていたのだ。その過程で、心に余裕をなくしていた。それを後悔したところで、過去は取り戻せない。
番組は最後に海に向かった。夕陽が沈む美しい海を背景に、ビーチバレーやボートのトレーニングに興ずるアデレードの人たちの姿を見て、ぼくはもう一度オーストラリアを旅したいと思った。
今の自分で。
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場所はアデレード。オーストラリア連邦南オーストラリア州の州都だ。オーストラリア各州の州都の中では5番目の規模の街で、文化と芸術の都としても知られている。
この番組の特徴は、行きあたりばったりに路地や店や市場などをめぐり、偶然出会った人たちとのやりとりを放送していることだ。つまり観光名所の紹介よりも土地の人の暮らしぶりに重点をおいている。それについて賛否両論はあるようだが、ぼくはそのスタイルが好きで、ほぼ毎週この番組を観ている。
今回の放送も観光名所の紹介はなく、ただ漠然と街を歩き、そこに暮らす人たちと会話をかわすだけに終始した。
番組を観ながら、ぼくは遠い昔の日々を思い出していた。アデレードですごした日々の思い出。ワーキングホリデー(注1)で1年間オーストラリアを旅した中で、2週間ばかり滞在した町だ。渡豪から2カ月目のことだった。その頃ぼくは22歳で、自分が何者で、どう生きていけばいいのかすらわからない若造だった。
(注1) 二国間の協定に基づいて、青年(18歳~25歳または30歳)が異なった文化(相手国)の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労をすることを認める査証及び出入国管理上の特別な制度。日本政府とワーキング・ホリデー査証(ビザ)に関する取り決め又は協定を結んでいるのは発効順にオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド、デンマーク、中華民国(台湾)、香港の11か国だが、ぼくがこの制度を利用した当時は、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの3カ国のみだった。
訪れたことがある街だったものの、放送を観ても、おぼえている場所は一つもなかった。ぼくが訪れたのはふた昔も前だし、滞在中も仕事さがししかしなかったので、とくに印象に残る場所がないのだ。
それでも思い出が一つもないわけではない。
ぼくにとってのアデレードの思い出といえば、やっぱりパトリックだろう。通称パティ。29歳(当時)のオーストラリア人だ。
パトリックと出逢ったのは、街のバックパッカーズ(ドミトリー形式の安宿)だった。夜行バスでアデレードにつき、その宿に滞在して2日目の朝に、ピノキオを思わせる小男がやってきて、うちにこないか、と誘ってきた。それがパトリックだった。
「アデレードには何日くらい滞在するの?」
「わからない。仕事をさがしにきたんだ。見つかるまでいるし、見つかったらずっと住むし」
「だったらこんなタコ部屋じゃなく、ぼくのうちにきなよ。1週間で50ドルでいいよ」
後でわかったことだが、かれは軽度の知的障害者で、定職がないかわりに、アデレードに滞在する日本人を格安で自宅に泊めることで、生活費をまかなっているらしかった。といっても悪知恵からの行為ではなく、純粋に日本人が好きなのだ。同じオーストラリア人とでは話が合わないが、英語をろくに話せない日本人となら、友情が成立するのだろう。
パトリックの家は、アデレード郊外にあった。平屋建ての3LDKだった。
部屋をあてがわれ、早速、仕事を得るための作戦を練った。アデレードには多くの飲食店があるし、郊外にいけばワイナリーもある。そのうちのどこかに雇ってもらおうと思っていた。
不意にパトリックが部屋に入ってきて、動物園にいこうよ、と誘ってきた。そんな気分ではなかったし、一日も早く仕事を得たかったので、ぼくはすぐさまノーと答えた。
「動物園、嫌いなの? それじゃ映画にする?」
「いや、映画にもいかない」
「映画も嫌いなの? だったらどこにいく?」
「どこにもいかない。仕事をさがすんだ」
ぼくはかれに、自分がこの町にきた目的を話した。はじめに逢ったときにも話したつもりだったが、伝わっていなかったようだ。オーストラリアにきて1カ月は経っていたとはいえ、そのときのぼくの英語力はまだ乏しかった。
結局その日は動物園にいくことになった。すぐに仕事さがしをはじめたいのはやまやまだったが、これからしばらくお世話になるのだから、初日くらい家主であるこの男につき合うのが人情だと思ったのだ。
だがそれがまちがいの元だった。
その後もぼくはパトリックのペースにハメられっぱなしで、あちこちに引きずりまわされた。博物館、美術館、映画、ビーチ……。おそらく今まで自分の家に泊めた日本人をつれていき、喜ばれた場所なのだろう。マサは絵が好きだった、コージは海が好きだった、ヒトミは映画がいい英語の勉強になるといっていた、行く先々でそんなことをぼくに話していた。ぼくからすれば、マサって誰だよ、って話だし、それに仕事をさがすことで頭がいっぱいだったから、どこへいっても心から楽しめなかった。
今日こそはきっぱりと断って仕事さがしをしよう。朝、起きるたびにそう誓うのだが、朝食の席でパトリックと向き合い、いつもどおりの子どもじみた会話がはじまり、さて今日はロフティマウンテンにでも行かない? と切り出されると、どうにも断れなくなるのだ。
それは、パトリックの独特のペースにハマってしまっている、というだけでなく、ぼくが心のどこかで仕事さがしをしたくないと思っていたからだろう。
アデレードにくる前にすごした町で、ぼくは1週間、ずっと仕事を断られつづけた。パブやレストランはもちろん、ホテル、スーパー、本屋、雑貨屋……、バイトの募集の有無にかかわらず一軒一軒飛びこみでたずね、すべて断られた。郊外の農場にも足を運んだ。ブドウ畑、リンゴ畑、綿花畑、牧場……、ハイウェイ沿いに横たわる農園という農園をたずねてまわったが、すべて断られた。何でもやります、体力もガッツもあります、だから雇ってください、たどたどしいぼくの英語に首を縦に振る人はいなかった。朝から夕方まで、ずっと「ノー」といわれつづけたのだ。それが1週間つづいた。つらかった。身も心もボロボロに疲れ果て、ぼくはその町をあとにしたのだった。
アデレードは大きな街だし、周囲にたくさんのブドウ畑やワイナリーがあるから、必ず仕事は見つかるだろう。そう思い、長距離バスに揺られてやってきたのだが、巨大な街を前にして臆してしまったのだ。それでパトリックの誘いに乗り、毎日ぶらぶらと遊んで暮らした。
1日どこかで遊んだ後、ときおりパトリックは、かれの実家にぼくをつれていった。物静かだがやさしい父親と、底抜けに明るい母親、それとその家にホームステイしている日本人の女の子が、その家に住んでいた。パトリックの両親は10年以上も日本人のホストファミリーをやっているようだった。かれの日本人好きは、そこからきているのだろう。
つきあっていくうちに気づいていたが、パトリックが軽度の知的障害者であることは、かれの母親から聞いた。べつに何でもないことだという口調で。ぼくにしてもべつにそれを知ってどうも思わなかった。差別もしなければ、同情もしなかった。見下すこともしなかったし、区別して考えることもしなかった。それはつまり、障害者だからつきあいたくないとか、逆に障害者だからつきあってあげなきゃならないとか、そういう考えもしないということだ。いいやつなら友達としてつきあうし、いやなやつだったりウマがあわなかったりすればつきあわない。今でもぼくには障害を持った友人が何人もいるが、その気持ちはかわっていない。
パトリックはいいやつだった。こっちの気分に関係なくマシンガンのように話しかけてくるのには辟易するが、それ以外の面ではウマが合った。だから今後もつきあっていきたいと思った。かれの障害など、特徴の一つにすぎなかった。
アデレードにきて5日目、ぼくはようやく仕事さがしをはじめた。持ち金が減っていき、さすがに尻に火がついたのだ。だけどそれだけではなかった。何としてでもアデレードで仕事を得たかったのだ。パトリックという友達がいるアデレードで。
だがここでも仕事さがしは難航した。今はどうなのか知らないが、当時のアデレードは街全体が日本人を嫌っていたのだ。街のいたるところに「NO JAP」という落書きがあったし、やんちゃな感じの若者に「ジャップ」と声をかけられることもあった。飛びこみでたずねた店の主に「日本に帰りやがれ」と汚くののしられたことも何度かあった。夜、裏通りを歩いていて、車の助手席から水をぶっかけられたこともあった。
それでも必死に仕事をさがしつづけた。とにかく何でもいいから働きたかった。とりあえず食っていけるだけの賃金がもらえるなら、どんなクソ仕事だってかまわなかった。
そんなある朝、ぼくはパトリックと喧嘩した。
喧嘩というより、ぼくが一方的にどなり散らしたのだ。
それはやつあたり以外の何物でもなかった。仕事が見つからず、そればかりかときに口汚い言葉でののしられ、ぼくは知らず知らずのうちに心がすさんでいたのだ。それに対する鬱憤を、能天気な知的障害者であるパトリックにぶつけてしまったのだ。
「シゲル、何をそんなにいらついてるんだい。ハハハ。スマイルスマイル、ハハハ。ところで、今日はどこにいく?」
「仕事さがしだ」
「仕事? ハハハ。仕事するの?」
「そうだよ。もう何度も説明しただろ。何度もな。ナ・ン・ド・モ」
「ハハハ」
「……」
「今日はさ、映画にいかない? おもしろそうなコメディーがあるんだ。ハハハ。いこうよ。ハハハ」
「いかないっていってんだろっ」
「どうして?」
「なぜなら、仕事をさがしにいくからだ」
「コメディー映画を観れば楽しい気分になるよ」
「ならねえよ。それに映画代もねえし」
「ハハハ。映画代ないの? ハハハ。ビンボーだ。ビンボー。日本語。アキが教えてくれたんだ。ビンボー、ビンボー。合ってる?」
「黙れっ」
「えっ?」
「黙れよ、△×野郎。おまえと話してると頭がへんになるぜ」
「どうして?」
「疲れるんだよ、朝からぺちゃくちゃやられるとよ」
「何を怒ってるんだよ」
「怒ってなんかいねえよ」
「スマイル、スマイル。ハハハ。早くご飯食べて、コメディー映画に……」
「いいか、聞けよ。俺は映画にはいかない」
「なぜ?」
「なぜかって? オーケイ。もう一度だけ教えてやる。それはな、仕事さがしにいくからだ」
「仕事? どうして?」
「金がないからだ。生活費が必要だからだ。いいか、俺はおまえみたいに、何にもしないでも国が保障してくれる人間とはちがうんだ。自分で働いて、生活費を稼がなくちゃならないんだよ、おまえとちがってな」
パトリックはきょとんとした顔をし、その後に、ハハハ、と笑った。苦笑いのような照れ笑いのような、寂しげな笑い方だった。
その喧嘩を境に、ぼくらの関係はぎくしゃくしたものとなった。いや、パトリックの方には変化はなかった。ぼくが一方的にかれに嫌悪感を抱いてしまったのだ。いいやつだ、という気持ちにはかわりなかったが、四六時中マシンガンのように話しかけられるのにはもう我慢ができなくなった。一言でいうとウザいのだ。一度毒を吐いたことで、その思いに歯止めが利かなくなってしまったのだ。
ぼくはなるべくパトリックに話しかけられないよう、常に忙しいふりをした。意味もなくノートを開いて何やら書きこんでみたり、日本語の本を熱心に読みふけったりした。それでもかれは話しかけてきたが、ちょっと今忙しいんだ、といってかわすようになった。
仕事が得られていたら、あるいはかれの能天気なマシンガントークを楽しめたのかもしれない。だが仕事は見つからなかった。これ以上アデレードにいつづけていても無意味だと思い、ぼくは旅立つことにした。確実に仕事が得られる町にいこうと思ったのだ。ゴールドコーストなら日本人相手の仕事が掃いて捨てるほどあると聞いていた。
ぼくは荷物をまとめ、パトリックに別れを告げると、ゴールドコーストに向かう長距離バスに乗った。
パトリックとは、その後一度も逢っていない。
「世界ふれあい街歩き」で観るアデレードは、ぼくが知らない街のようだった。映像の中の建物のいくつかは、おそらく仕事を得るために飛びこみで訪ねたと思うが、どれも印象には残っていない。
だけど、やっぱり懐かしさはあった。
それは、街いく人々の誰もが人生を楽しんでいる、あの国特有の明るさだ。
人生は長くて深いものだから、悩みや問題を抱えていない人などいない。それでもあの国では、誰もがそんな様子をおくびにも出さず、明るく生きていた。
パトリックだってそうだったのだ。
本人がそれを自覚していたかどうかは知らないが、脳に障害を持っているのだから、その苦労は並大抵のものではなかったはずだ。それでも明るく生きていた。人生を楽しんでいた。
それに比べてぼくは……
そんなふうに自分を責めるのはよそうと思う。あの頃は必死だったのだ。あの国で何かをつかんでやろうと必死に生きていたのだ。その過程で、心に余裕をなくしていた。それを後悔したところで、過去は取り戻せない。
番組は最後に海に向かった。夕陽が沈む美しい海を背景に、ビーチバレーやボートのトレーニングに興ずるアデレードの人たちの姿を見て、ぼくはもう一度オーストラリアを旅したいと思った。
今の自分で。
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ここからどうぞ→お父さんとの旅『入り口』
先日、NHKの番組「世界ふれあい街歩き」を観た。場所はカントー。ベトナム南部、メコンデルタ最大の都市だ。
※番組ホームページ→http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/detail/arukikata/110227.html
メコンデルタは世界有数の稲作地帯で、その中心地がカントーだ。メコン川の支流カントー川沿いに築かれ、米や野菜、果物などの集積地として19世紀から栄えてきた。
それを象徴するのがカイランの水上市場だ。メコン川の各支流から収穫物を満載した船が集まり、川の上で売買がおこなわれるのだ。
こんな感じに。
※動画を提供してくださった方、ありがとうございます。
ところで、ぼくも5年前ベトナムを旅したとき、カントーにいった。
チャウドックという、これまたメコンの支流のほとりの町からぎゅうぎゅうづめのバスに乗って、カントーの町にいきついた。
バスターミナルにつくと、すぐに10人以上のモトドップ(バイクタクシー)乗りに囲まれ、俺のバイクに乗れ、いや俺のに乗れ、と方々から手を引っ張られた。
ベトナムの旅をはじめたばかりの頃はこの強引な客引きに嫌悪感を抱いていたのだが、必ずしもわるい連中ではないと知り、また利用価値も大きいのだと気づき、旅の終盤には積極的にモトドップを利用するようになっていた。だからカントーのバスターミナルでモトドップ乗りに囲まれたときも、「おっ、きたな」と心の中でほくそ笑んだ。
ほくそ笑みながらも、あえて迷惑そうな表情をつくる。駆け引きはすでにはじまっているのだ。駆け引き、そう、料金の交渉だ。
「長旅で腹ペコなんだ。だからまずは腹ごしらえだよ」
のんびりと落ち着いた口調でいうと、何人かのせっかちなモトドップ乗りは立ち去った。そこまではつき合いきれないという感じに。気の長い、商売熱心な何人かがぼくのもとに残った。そして「だったら俺のなじみの食堂で食いなよ」と、近くの食堂を指さしていう。ぼくは一番感じのいいやつをさりげなくえりすぐり、なおもじらしつつ、そいつのすすめる食堂へ向けてゆっくりと歩き出した。
「チープ(安い)?」
「イエス、チープ(ああ安いとも)!」
「ベリーチープ(すごく安い)?」
「イエス、ベリーチープ(ああ、すごく安いよ)!」
「グッドテイスト(うまいか)?」
「イエス、グッドテイスト(うまいよ)」
そのモトドップ乗りがすすめた食堂の飯は、たしかにうまかった。ゆっくりと味わって食い、支払いを終えると、ぼくはモトドップ乗りと街までの料金の交渉をはじめた。ここで「グッバイ」といって立ち去ることもできるのだが(実際、ムカつくやつ相手にはそうしたこともあった)、さすがにそうはしなかった。よさそうな男だったし、ぼくとしても市街地までの足は必要なのだ。
たいてい、モトドップ乗りは10000ドン(当時70円)から交渉に入る。ぼくは落としどころを5000ドンと決めて、1000ドンから交渉に入る。
そのときのやり取りは筆談だ。

かれのバイクのケツに乗って街へ。中心街から少しはずれたところにある安宿に投宿した。ホットシャワーつきのシングルで、$5だった。
その日はカントーの町を歩くだけで、とくに何もしなかった。
カイランの水上マーケットをおとずれたのは翌日だった。
ボートに乗ってメコン川といくつかの支流を周遊した。ツアーというよりボートの運転手兼ガイドを雇う形で、8時間で30$だった。

ハイライトはやはり水上マーケットだったが、川の上から水上生活者たちの暮らしを眺めるだけで楽しかった。
ボートの運転手は寡黙な男で、気のきいたガイドはしてくれなかった。だがぼくにはそれがよかった。べらべらとジョークまじりにガイドをされるよりも、ただ静かに目の前の情景を眺めているのが好きなのだ。自分の目で見て、いろいろと考え、感じ、想像し、思いついたことをメモ帳に書きとめる。それがぼくの旅のやり方だ。よけいな説明はいらないのだ。本当に訊きたいことがあったときにだけ質問すればいい。
口数は少なくても、いや、だからこそその運転手とは馬が合った。ツアー終了後には、かれの自宅(そこも川沿いにあったのでボートで乗りつけた)に招かれたほどだ。奥さんがつくる料理を食べつつ、庭にあったビリーヤードで勝負した。ベトナム特有のゲームなのか、はじめてやるルールでの戦いは、1勝もできずに終わった。
ぼくはかれにチップをはずんだ。ビリヤードでの負け分も合わせると、相当の額になった。1カ月弱のベトナムの旅で、これほど気前よく金をはらったことはなかった。
夕方、ポート乗りのバイクで宿まで送ってもらった。
おもしろいのは、かれらベトナム人がオートバイのことを「ホンダ」と呼ぶことだ。世界のHONDAが、そのままオートバイをさす名詞になっているのだ。
だからそのときのボート乗りとの会話はこうなる。
ボート乗り「俺のホンダで送っていくよ」
俺「へえ、ホンダに乗ってるのか?」
ボート乗り「ああ。俺のホンダはスズキさ」
俺「???」
ボート乗り「さあ、俺のホンダに乗れよ」
俺「ホンダ? スズキじゃないか」
ボート乗り「そうさ。いったろ。俺のホンダはスズキなんだ」
宿に戻るとシャワーを浴び、カントーの町を歩いた。
カントーには、カイランの水上マーケット目当ての観光客が数多くいる。そこから逃げたくて、ぼくは渡し船で対岸にわたった。対岸の町は観光地化されていないばかりか、アスファルトの道路1つなかった。細い道が入り組み、その左右にどうにか雨露がしのげる家々が立ち並ぶという、田舎町だった。
ぼくは歩いた。日暮れまで、たっぷりと時間をかけて。異国の町、それも観光の匂いがしない手つかずの集落を歩きまわるのは、高い金をはらって砂漠だとかオーロラだとかを観るツアーに参加するより、何万倍も楽しいものだった。
何人かの村人に話しかけられ、家に招かれ、酒をふるまわれた。そのうちの何軒かは水上の家だった。どの家でもニワトリを飼っていて、またどの家にも仏壇が置いてあった。テレビもあったから、そこまで貧しい町ではないのだろう。
日暮れ近くになると、また渡し船でカントーに戻った。ちなみにこの船も料金は交渉で決まる。バイクや自転車ごと乗れるフェリーも往復していたが、渡し船に乗る方が断然おもしろい。
黄昏のカントーを歩いた。観光地化されているとはいえ、そこにもやはりベトナム人の生活があって、ぼくはそれを覗きこむように、ゆっくりと隅々まで歩いた。
町を走りまわるバイクの音や、水上をいきかう船のエンジン音が、夜になっても消えなかった。
翌朝早く、ぼくはモトドップをつかまえてバスターミナルにいき、ホーチミン行きのバスに乗った。
「世界ふれあい街歩き」を観て、5年前の旅を思い出した。今、当時のメモ帳を取りだして読み返している。カントーをおとずれたのは旅の終盤で、帰国後のことをちらちらと考えながらの滞在だったことを思い出す。日本に帰りたくないという思いをかみ殺すように、帰国後の目標やら野望やらが書き殴ってあるのが、自分のことでありながらもおもしろい。
最近は旅にいけないでいる。ちょっぴり物足りなくもあるが、こうして「世界ふれあい街歩き」を観て、欲求を満たしている。
いや、本当は満たされてなんかいない。逆にうずうずしてしまう。放映を観るたび、旅がしたい、と心が叫ぶのだ。
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チャウドックという、これまたメコンの支流のほとりの町からぎゅうぎゅうづめのバスに乗って、カントーの町にいきついた。
バスターミナルにつくと、すぐに10人以上のモトドップ(バイクタクシー)乗りに囲まれ、俺のバイクに乗れ、いや俺のに乗れ、と方々から手を引っ張られた。
ベトナムの旅をはじめたばかりの頃はこの強引な客引きに嫌悪感を抱いていたのだが、必ずしもわるい連中ではないと知り、また利用価値も大きいのだと気づき、旅の終盤には積極的にモトドップを利用するようになっていた。だからカントーのバスターミナルでモトドップ乗りに囲まれたときも、「おっ、きたな」と心の中でほくそ笑んだ。
ほくそ笑みながらも、あえて迷惑そうな表情をつくる。駆け引きはすでにはじまっているのだ。駆け引き、そう、料金の交渉だ。
「長旅で腹ペコなんだ。だからまずは腹ごしらえだよ」
のんびりと落ち着いた口調でいうと、何人かのせっかちなモトドップ乗りは立ち去った。そこまではつき合いきれないという感じに。気の長い、商売熱心な何人かがぼくのもとに残った。そして「だったら俺のなじみの食堂で食いなよ」と、近くの食堂を指さしていう。ぼくは一番感じのいいやつをさりげなくえりすぐり、なおもじらしつつ、そいつのすすめる食堂へ向けてゆっくりと歩き出した。
「チープ(安い)?」
「イエス、チープ(ああ安いとも)!」
「ベリーチープ(すごく安い)?」
「イエス、ベリーチープ(ああ、すごく安いよ)!」
「グッドテイスト(うまいか)?」
「イエス、グッドテイスト(うまいよ)」
そのモトドップ乗りがすすめた食堂の飯は、たしかにうまかった。ゆっくりと味わって食い、支払いを終えると、ぼくはモトドップ乗りと街までの料金の交渉をはじめた。ここで「グッバイ」といって立ち去ることもできるのだが(実際、ムカつくやつ相手にはそうしたこともあった)、さすがにそうはしなかった。よさそうな男だったし、ぼくとしても市街地までの足は必要なのだ。
たいてい、モトドップ乗りは10000ドン(当時70円)から交渉に入る。ぼくは落としどころを5000ドンと決めて、1000ドンから交渉に入る。
そのときのやり取りは筆談だ。

かれのバイクのケツに乗って街へ。中心街から少しはずれたところにある安宿に投宿した。ホットシャワーつきのシングルで、$5だった。
その日はカントーの町を歩くだけで、とくに何もしなかった。
カイランの水上マーケットをおとずれたのは翌日だった。
ボートに乗ってメコン川といくつかの支流を周遊した。ツアーというよりボートの運転手兼ガイドを雇う形で、8時間で30$だった。

ハイライトはやはり水上マーケットだったが、川の上から水上生活者たちの暮らしを眺めるだけで楽しかった。
ボートの運転手は寡黙な男で、気のきいたガイドはしてくれなかった。だがぼくにはそれがよかった。べらべらとジョークまじりにガイドをされるよりも、ただ静かに目の前の情景を眺めているのが好きなのだ。自分の目で見て、いろいろと考え、感じ、想像し、思いついたことをメモ帳に書きとめる。それがぼくの旅のやり方だ。よけいな説明はいらないのだ。本当に訊きたいことがあったときにだけ質問すればいい。
口数は少なくても、いや、だからこそその運転手とは馬が合った。ツアー終了後には、かれの自宅(そこも川沿いにあったのでボートで乗りつけた)に招かれたほどだ。奥さんがつくる料理を食べつつ、庭にあったビリーヤードで勝負した。ベトナム特有のゲームなのか、はじめてやるルールでの戦いは、1勝もできずに終わった。
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夕方、ポート乗りのバイクで宿まで送ってもらった。
おもしろいのは、かれらベトナム人がオートバイのことを「ホンダ」と呼ぶことだ。世界のHONDAが、そのままオートバイをさす名詞になっているのだ。
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宿に戻るとシャワーを浴び、カントーの町を歩いた。
カントーには、カイランの水上マーケット目当ての観光客が数多くいる。そこから逃げたくて、ぼくは渡し船で対岸にわたった。対岸の町は観光地化されていないばかりか、アスファルトの道路1つなかった。細い道が入り組み、その左右にどうにか雨露がしのげる家々が立ち並ぶという、田舎町だった。
ぼくは歩いた。日暮れまで、たっぷりと時間をかけて。異国の町、それも観光の匂いがしない手つかずの集落を歩きまわるのは、高い金をはらって砂漠だとかオーロラだとかを観るツアーに参加するより、何万倍も楽しいものだった。
何人かの村人に話しかけられ、家に招かれ、酒をふるまわれた。そのうちの何軒かは水上の家だった。どの家でもニワトリを飼っていて、またどの家にも仏壇が置いてあった。テレビもあったから、そこまで貧しい町ではないのだろう。
日暮れ近くになると、また渡し船でカントーに戻った。ちなみにこの船も料金は交渉で決まる。バイクや自転車ごと乗れるフェリーも往復していたが、渡し船に乗る方が断然おもしろい。
黄昏のカントーを歩いた。観光地化されているとはいえ、そこにもやはりベトナム人の生活があって、ぼくはそれを覗きこむように、ゆっくりと隅々まで歩いた。
町を走りまわるバイクの音や、水上をいきかう船のエンジン音が、夜になっても消えなかった。
翌朝早く、ぼくはモトドップをつかまえてバスターミナルにいき、ホーチミン行きのバスに乗った。
「世界ふれあい街歩き」を観て、5年前の旅を思い出した。今、当時のメモ帳を取りだして読み返している。カントーをおとずれたのは旅の終盤で、帰国後のことをちらちらと考えながらの滞在だったことを思い出す。日本に帰りたくないという思いをかみ殺すように、帰国後の目標やら野望やらが書き殴ってあるのが、自分のことでありながらもおもしろい。
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8月9日の夜から11日にかけて、福島県南会津郡に水害ボランティアにいってきました。
その帰りに、南会津郡のいくつかの集落に立ちより、ぶらぶらと歩きました。携帯電話のカメラを片手に。パシャパシャと、気に入った情景を撮りながら。
じつはこれ、自分の中で、かなりの大冒険というか、大事件なのです。
……というのも、ぼくはこれまで「写真を撮る」という行為を、自分に禁じていたのです。禁じていたというか、嫌っていたというか……
詳しくは、こちらの過去記事を読んでください。
12/13写真について
12/15写真についてその2
だけど、言い訳に聞こえるかもしれないけど、人というのは日々かわっていくもので、たとえば今まで食べられなかった物がある日突然好きになる、ってことがあるように、自分が毛嫌いしていたものに興味がわくこともあると思うんです。
「写真」がぼくにとってそれでした。
上の記事に共感してくださった読者の皆さんを裏切るみたいな後ろめたさもあるのですが、ぼくは自分が変化することを、わるいことだと思いません。変化する自由を、ぼくはつねに心の中に持っていますので。
今こうして書いているブログだって、かつては嫌悪感すら抱いていたし、もっといえば、パソコンだって、自分は絶対に一生やらないと思っていた。
だけど今はどっぷりつかっています。
パソコンもブログも、あるいはツイッターも、やってみてよかったと思ってます。やってみて、いろんな人や物、出来事、意識、と出逢えましたから。
自分の思いにこだわってずっとかわらないままでいるより、やってみようかな、おもしろいかもしれないな、と思ったら、こだわりを捨てて、やってみるといいんです。
……と、まあ、ぐだくだと言い訳しましたが、とにかく写真を撮ってきました。それも100枚以上。
楽しかった。
出来栄えは……、どうでしょうか。だけど楽しかったから、それでいいんだと思うことにします。
……で、その写真を、皆さんにお見せします。
題して「水のある風景」
では、ごらんください。






















いかがでしたか?
また機会があったら、写真を撮って、お見せするかもしれません。
では。ご訪問くださり、ありがとうございました。
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その帰りに、南会津郡のいくつかの集落に立ちより、ぶらぶらと歩きました。携帯電話のカメラを片手に。パシャパシャと、気に入った情景を撮りながら。
じつはこれ、自分の中で、かなりの大冒険というか、大事件なのです。
……というのも、ぼくはこれまで「写真を撮る」という行為を、自分に禁じていたのです。禁じていたというか、嫌っていたというか……
詳しくは、こちらの過去記事を読んでください。
12/13写真について
12/15写真についてその2
だけど、言い訳に聞こえるかもしれないけど、人というのは日々かわっていくもので、たとえば今まで食べられなかった物がある日突然好きになる、ってことがあるように、自分が毛嫌いしていたものに興味がわくこともあると思うんです。
「写真」がぼくにとってそれでした。
上の記事に共感してくださった読者の皆さんを裏切るみたいな後ろめたさもあるのですが、ぼくは自分が変化することを、わるいことだと思いません。変化する自由を、ぼくはつねに心の中に持っていますので。
今こうして書いているブログだって、かつては嫌悪感すら抱いていたし、もっといえば、パソコンだって、自分は絶対に一生やらないと思っていた。
だけど今はどっぷりつかっています。
パソコンもブログも、あるいはツイッターも、やってみてよかったと思ってます。やってみて、いろんな人や物、出来事、意識、と出逢えましたから。
自分の思いにこだわってずっとかわらないままでいるより、やってみようかな、おもしろいかもしれないな、と思ったら、こだわりを捨てて、やってみるといいんです。
……と、まあ、ぐだくだと言い訳しましたが、とにかく写真を撮ってきました。それも100枚以上。
楽しかった。
出来栄えは……、どうでしょうか。だけど楽しかったから、それでいいんだと思うことにします。
……で、その写真を、皆さんにお見せします。
題して「水のある風景」
では、ごらんください。






















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8月に入った。
ぼくの職場は365日24時間稼働していて、ゆえに休日はシフト制だ。前もって出勤できない日を告げ、それをもとに責任者がシフトを組むのだ。
今月は特別に決まった用事がなかったので、ぼくは休日希望を出さなかった。
……で、出てきたぼくの休日が、4(木)5(金)10(水)11(木)18(木)20(土)27(土)……だ。
わかりづらいかな。
では、こちらを。

もうちょい、よるか。

※画像のカレンダーは、こちらを参照ください→RYU-RYUポケットカレンダー
……てな感じだ。
ううん……。
もうちょい休みたい気もするが、まあいいだろう。
前半に連休が二つ!
これは貴重だ。ぜひ有効に使わなくては。
もちろん、震災復興支援に費やすのだ。
とはいえ、先週いってきたばかりだから、4、5日はちょっときつい。まだ完全に疲労が取れていないから、身体のオーバーホールにあてたい。
東北へは来週の連休にいこうと思う。
その次の飛び石連休(?)も有効に使いたい。とくに18日は、何か思いっ切り活動したいものだ。くたくたになっても、翌々日また休日がくるのだから。
最後の27日は、予定で早々と埋まってしまった。母親の仕事の手伝いだ。ようは運転手である。
ううん。夏なのになあ……。
思い切って4~5日に旅にでも出るかな。旅先でのんびりして身体を休めればいい。
いや、駄目だ。雑用もたまっているのだった。それも片づけておかないと気持ちが重たいままになる。
あっ、いいこと考えた!
東北に復興支援にいった帰りに、どこかによってくればいいのだ。
帰り道は東北道だから、その途中でどこかいいところはないかな……と。
あった!
日光!
ぼくが好きな場所(国内編)トップ10に入る場所だ。あそこには山屋としてのぼくが一番好きな山、日光白根山がある。
前回と同様、9日に千葉を発って、10日に復興支援、その足で日光にいって車中泊し、翌11日、日光白根山に登る。一番短いコースでいけば、往復5時間。朝イチで登れば午前中に下山できる。温泉に入ってから帰途についても、夕方には千葉の自宅につける。
うんうん、いいぞ! 夏の思い出できるじゃんか!
まあ、あくまでも予定だけど。もしかしたらボランティアを2日間やるかもしれないし。あるいは休み明けの仕事を考えて、11日は休養にあてるかもしれないし。
まだちょっと時間があるから、しばし考えてみよう。
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ぼくの職場は365日24時間稼働していて、ゆえに休日はシフト制だ。前もって出勤できない日を告げ、それをもとに責任者がシフトを組むのだ。
今月は特別に決まった用事がなかったので、ぼくは休日希望を出さなかった。
……で、出てきたぼくの休日が、4(木)5(金)10(水)11(木)18(木)20(土)27(土)……だ。
わかりづらいかな。
では、こちらを。

もうちょい、よるか。

※画像のカレンダーは、こちらを参照ください→RYU-RYUポケットカレンダー
……てな感じだ。
ううん……。
もうちょい休みたい気もするが、まあいいだろう。
前半に連休が二つ!
これは貴重だ。ぜひ有効に使わなくては。
もちろん、震災復興支援に費やすのだ。
とはいえ、先週いってきたばかりだから、4、5日はちょっときつい。まだ完全に疲労が取れていないから、身体のオーバーホールにあてたい。
東北へは来週の連休にいこうと思う。
その次の飛び石連休(?)も有効に使いたい。とくに18日は、何か思いっ切り活動したいものだ。くたくたになっても、翌々日また休日がくるのだから。
最後の27日は、予定で早々と埋まってしまった。母親の仕事の手伝いだ。ようは運転手である。
ううん。夏なのになあ……。
思い切って4~5日に旅にでも出るかな。旅先でのんびりして身体を休めればいい。
いや、駄目だ。雑用もたまっているのだった。それも片づけておかないと気持ちが重たいままになる。
あっ、いいこと考えた!
東北に復興支援にいった帰りに、どこかによってくればいいのだ。
帰り道は東北道だから、その途中でどこかいいところはないかな……と。
あった!
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まあ、あくまでも予定だけど。もしかしたらボランティアを2日間やるかもしれないし。あるいは休み明けの仕事を考えて、11日は休養にあてるかもしれないし。
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