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魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

魂の落書き 〜おでんまちのひ 店主の日記〜

旅について 遊びについて 夢について 人生観について 本について 愛用品について ありったけの思いを語ります

 

桜の頃~父の命日

仕事を終えて帰宅し、夕方、散歩に出かけた。

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桜が見事な花びらを見せていた。

桜並木に囲まれて、ぼくは歩いた。ああ、今年もまた、桜の季節を迎えたのか、早いものだ……

桜を見ると、決まって思い出すのは、父が死んだ日のことだ。

父が肝硬変で亡くなったのも、ちょうど桜が咲く頃だった。3月の終わりだったから、その年は早くに開花したのだろう。

いや、咲いてなかったでしょ……
そう母は主張する。弟も、咲いてなかった、と断言する。だとしたら、ぼくの記憶ちがいだろうか……

通夜の日も含めて、父の死後1週間は本当にあわただしく、3人とも心身ともにこれ以上ないほどにすり切れていた。だから、記憶が前後したとしても、何の不思議はない。

もしかしたら、咲いていなかったか……。

どちらにしろ、ぼくは桜を見るたび、父の死を思い出す。目を見張るほどの桜の花とともに、父は天国へと旅立った……、そんなイメージがぼくにはある。

だから命日ではなく、ぼくは桜の満開を迎えたとき、父に思いをはせる。「桜の頃」が、ぼくにとっての父の命日なのだ。

だから今日、桜並木を歩きながら、ぼくは父に語りかけた。


父さん……、そちらはどうですか?

こっちはぼちぼちさ。俺はあいかわらず駄目な男のままだけど、おかげさまで身体だけは元気でいるよ。

母さんのことなら、心配いらないよ。若い頃に迷惑をかけた分、孝行するつもりだから。

あとはそうだね、俺がしっかりとした大人になることだね。いろいろ考えてるから。ちょっとやりたいことがあるんだ。大丈夫だって。自信はあるからさ。

気長に期待しててよ。俺はやるときゃやりますよ、ホントに。

嫁さん? そっちの方はちょっと……。こればっかりは縁だからさ。まあ、仕方ないや。

まあ、ぼちぼちがんばるよ。

あっ、そうそう、今年も桜は見事だよ。

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幼なじみの命日

先週の木曜、2月17日は、幼なじみの命日だった。

Aとここでは呼ぼう。

Aはぼくより二つ年下の男で、ぼくの年子の弟と3人、兄弟のように育った。場所は千葉県の鎌ヶ谷市、梨園と田んぼ、野っ原、くぬぎの森がそこらじゅうに横たわる田舎町だ。

ぼくが小学校に上がるまでは、ほとんど毎日つるんで遊んだ。小学校に入学してからは同級生とのつきあいがあって毎日遊ぶことはなくなったが、日曜とか夏休みとか、学校が休みのときは一緒に遊んだ。何せ、玄関がちがうだけでほとんど同じ場所に住んでるようなものだったから、互いの時間を共有するのは、当然のことだった。

Aはどちらかといえば、どんくさい少年だった。虫捕りをやっても、ザリガニ釣りをしても、ケイドロでも、野球でも、たいてい足手まといだった。だが木登りだけは誰にも負けなかった。何かでへまをやらかしてぼくや弟にからかわれるたび、Aは近くにある高い木に登るのだった。年長のぼくらでもびびるくらいの高さまで。

「わかったわかった。わるかったよ。おまえはすげえよ。だから下りてこいよ」
「もうからかわない?」
「ああ。からかわねえよ。だから早く下りてこいって。危ねえからよ」

あのとき、Aは誰よりも高い場所から、どんな風景を見ていたのだろう。ぼくらが到達できない特別な場所で、何を感じていたのだろう。

それから何年かして、ぼくらは離ればなれになった。ぼくが五年生のときだ。父が千葉市の郊外に家を買ったため、引っ越すことになったのだ。

「ホントにいっちゃうの?」
Aは寂しがった。
「ああ」
もちろんぼくも弟も、自分たちが育った故郷を離れるのだから寂しくないわけがなかった。だけど、だからといって、親が決めたことに反発する力は、子どものぼくらにはなかった。
「引っ越すっていったって、千葉なんてそんなに遠くないって。だからいつでも遊びにくるから」
「ホント?」
「ああ」
「ホントにホント? 絶対に? 約束できる?」
「ああ」
ぼくはうんざりと、だけど胸にちょっぴりせつなさを感じながら答えた。横でAと弟が、指切りげんまんをはじめるのを、何ともいえない気持ちで眺めた。ユビキリゲンマン、ウソツイタラ、トマトジュース、ノ~マス……
「絶対に逢いにくるって」
ぼくはいった。
「死んでも逢いにくるからよ」
「ええ? 死んだら逢いにこれないじゃん」
「化けて出てくるってことだよ」
ぼくはAをからかい、にやりと笑った。
「おまえも化けて出てくるか?」
「うん」
Aは無邪気に答えた。おおそうか、とぼくは笑ったが、そういう冗談が嫌いな弟だけは、いやな顔をした。
「はっはっはっ。冗談さ。生きて逢おうぜ」

新しい生活がはじまり、しばらくはぼくも弟も、Aがどうしているかとよく口にした。だが年月がたつにつれて、徐々にAの話題は減っていった。高校に入る頃には、ほとんど思い出すこともなくなった。ときおり母の口から、Aが鹿児島にある全国屈指の進学校に入学したことや、そこの高校でラグビーをはじめたこと、現役で早稲田大学に入ったことなどを聞いた。そのつど、ふうん、と答えるだけだった。逢いたい、と思わないでもなかったが、やつの華やいだ人生に、ちょっぴり気後れした。当時のぼくは、三流高校すらギリギリの成績で卒業した、「いつかビッグになるぜ」が口ぐせの、ただのクソガキだったのだ。まあいいや、いつだって逢えるんだから。ビッグになってからフェラーリに乗って逢いにいってやる。そうやって再会を先延ばしにしていた。

Aが逝ったのは、ある寒い冬の日だった。

19歳の冬、早稲田大学に入学して1年目の、人生で最高に楽しい時代の真っただ中のことだった。

連絡を受け、両親と弟は通夜に駆けつけた。

ぼくはいかなかった。仕事が抜けられなかったのだ。やりがいもなく、理念もなく、ただ収入だけがやたらといい、そんな仕事が「超」がつくほどの繁忙期を迎えていたのだ。

春になり、ゴールデンウィークがすぎる頃、ようやく仕事が落ちついた。ある晴れた日曜、ぼくはAの家、すなわち故郷の町をたずねた。

突然の来訪に、おじさんもおばさんも驚いたが、その顔はすぐに笑みをたたえてぼくを迎えてくれた。ぼくはまず通夜や告別式にこられなかったことを詫び、ていねいにあいさつして、靴を揃えて家に上がった。この家でそんなことをしたのははじめてだった。

遺影に手を合わせ、おじさんたちと話した。当時どちらかといえば悪ガキだったぼくは、正直このおじさんたちが苦手だったが、さすがにこのときは懐かしさの方が勝った。それでもそこに昔のようななれなれしさはなかった。ぼくは敬語を使ったし、2人もぼくを1人の大人としてあつかった。出されたのはオレンジジュースやアイスクリームではなく、豆から挽いたコーヒーで、おじさんとぼくの間にはガラス製の灰皿があった。

2人はかわるがわる、ぼくに質問を投げた。今、何をしているのか。その仕事はやりがいはあるのか。将来性はあるのか。将来はどうなっていきたいのか。そんな質問の一つひとつにぼくが答えるたび、そうかそうか、うんそれはいい、いやいや一人前になったなあ、と何度も頷き、最愛の息子を亡くした悲しみをいっとき忘れるように、やさしげに笑った。

ぼくは後にも先にも、あんなに悲しい笑顔をする人を見たことがない。



あれから20年が経った。

ぼくは毎年、Aの命日に墓参りをしている。

仕事を休むこともあれば、抜け出していくこともある。仕事を終えてから、車を飛ばしていくこともある。

今年は仕事が終わってからいった。

線香に火をつけ、Aの墓に水をかけた。

おい、とぼくはAの名を呼んだ。

おれはあいかわらずだよ。あいかわらず夢ばっか追いかけて、何者にもなってない。笑っちゃうよな。負け組っていうらしいぜ、おれみたいなやつのことを。だけどなあ、おれはいつだって真剣に生きてるんだ。いろんなもん捨ててよ。いろんなもん犠牲にしてよ。必死こいてやってんだ。まわりの連中は馬鹿だっていうけどよ。

ぼくはまた墓に水をかけ、ふたたびAの名を呼んだ。

おまえ、あのときの約束をおぼえてるか。俺らが引っ越したときの約束さ。おまえ、化けてでも逢いにくるっていったよな。あの約束、どうなった? おまえ、逢いにこいよ。おまえの幽霊なら、ちっとも怖くねえからよ。そんで、俺が弱ってるとき、何かに打ちのめされそうになったとき、そんなときに、なあ、助けてくれよ。幽霊になってよ。俺は俺の弱さを人には見せたくねえけど、幽霊になったおまえになら見せられるからよ……

そんなふうに墓前に語りかけ、ふと思った。

もしかしたら、もうとっくに約束を果たしてくれているのかもしれない。何者かの姿に乗り移って、ぼくに何かを語りかけてくれているのかもしれない。何回も。何十回も。

だとしたら、約束を守らなくちゃならないのは、ぼくの方だ。Aが逢いにきてくれているなら、それが誰の姿を借りていたとしても、ぼくはそれがAなのだと認めなくてはならない。そしてやつの言葉をしっかりと受けとめ、生きていかなくてはならない。

そうか、とぼくは墓を見つめ、ふっ、と笑う。そうだっけな。おまえは約束はちゃんと守るやつだったからな……

ぼくはもう一度、Aの墓に水をかけ、墓地を立ち去った。

来年は、必ず、でっかいみやげ話を持ってくるからよ、と小さく口にして。




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父の田舎 ~スーパーカーへの思い③

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

「おう」と返事する2人の顔には笑みがあった。自分たちが買ってきたものに自信がある、といった感じが、その表情からうかがえた。
ぼくらは期待した。

「カウンタックは誰だっけ?」
「ぼく」弟が手を挙げ、その手でカウンタックのプラモデルを受け取った。「ありがとう」
ぼくは弟が手にしたプラモデルの箱の大きさに驚いた。いつも買っているお手軽なやつじゃなく、1000円近くする上等なやつだ。パッケージに描かれているカウンタックを見るだけで、身震いが起こるほどの代物だった。
「で、おまえはこれな」つづいてお兄ちゃんはSにプラモデルを手わたした。これも弟のカウンタックと同じく大きかった。「ポルシェなかったさかい、ミウラにしたわ。ええやろ?」
「うん、ありがと」
「ああ、ミウラいいなあ」カウンタックを手にした弟がいった。
「取りかえるけ?」
「ううん、いいや。ぼくカウンタックで」

そんな2人のやり取りを眺めつつ、ぼくはみがまえた。いよいよ次はぼくのフェラーリ512BBだ。Sのポルシェ同様、売ってなくてちがうやつだったらいやだな、とちらりと思ったが、それはそれでいいや、と一瞬にして思い直した。とにかくスーパーカーのプラモデルが手に入るのは間違いないのだ。

「で、おまえはフェラーリやったな」
「はい」きたあっ、と思いながら返事した。
ほれ、といって手わたされた箱の予想外の軽さにいやな予感を抱きつつも、ぼくは喜んでパッケージを見た。

その瞬間、ショックで全身がわなわなと震え出した。

日東科学のサーキットの狼シリーズじゃないか……

日東科学のサーキットの狼シリーズは、当時定価400円で売っていた超お手軽シリーズで、組み立ても簡単なら、出来上がりも当然安っぽい、プラモデルの入門といった代物だった。ぼくをふくめ、同級生の誰もが、とっくにサーキットの狼シリーズは卒業していた。今や見向きもしないどころか、そんなものをつくっていると知れたら、笑いの的になるという類のものだった。

こんなのプラモじゃない。しかもフェラーリはフェラーリでも、BBじゃなくディノRSじゃないか……!

2人のお兄ちゃんは「ありがとう」の言葉待っている感じだった。だけどさすがに素直にありがとうとはいいがたかった。むしろ、ふざけんな、とどなりたいくらいだった。

もちろん、このお兄ちゃんたちはわざわざ街まで出かけて買ってきてくれたわけで、安物だろうが何だろうが、それに対してお礼をいうのがスジだ。

だけどそれは大人の理屈だ。

当時はまだ9歳の子どもで、そんな理屈などとおらなかった。弟やSが普段手にできない高価なプラモデルをもらった横で、自分だけが400円のサーキットの狼シリーズを手にしたことに、ただただショックを受けていた。

大人だって、たとえば自分と同じ働きしかしていない同僚たちの夏のボーナスが30万円で、自分だけが15万円しかもらえなかったら、ショックを受けるか、怒るかするだろう。

それと同じだ。いや、たぶん、それ以上のショックだった。

それでもぼくはありがとうといった。約束どおり(512BBではなかったが)プラモデルを買ってきてくれたわけだし、ここで文句をいうのは、やっぱりいけないと思ったのだ。大騒ぎして父に叱られるのも怖い、という計算もあった。

だがもしかしたらそれはまちがいだったのかもしれない。はっきりと子どもらしく「どうしてぼくのだけサーキットの狼シリーズなの?」と意見をぶつけるべきだったのかもしれない。

自分の気持ちに嘘をついたことで理不尽さが胸に残ってしまい、ぼくはその後ずっと涙をこらえていた。それだけじゃなく、ちょっと精神的にヤバくなった。さっそくプラモデルをつくりはじめた弟やSさえ憎かったし、自分のこの哀しみに気づかない父や母も憎かった。もちろん一番憎かったのは、自分にこのような仕打ちを与えた2人のお兄ちゃんだった。そんなこともつゆ知らず大人たちと歓談する2人のお兄ちゃんを、ぼくは遠くからずっとにらんでいた。怒りに気づいてほしい気持と、気づかれたらまずい(大事件に発展して父に叱られる)という気持ちとが、心の中で戦っていた。

時間が経っても、怒りは消えなかった。

このまま家の中にいては、いずれ危険な展開に発展してしまう……。

子どもながらに本能的にそう感じたぼくは、黙って外に出た。ぼくが外にいくことについて、大人の誰からも、また弟やSからも声がかからなかった。そのことにも、憤りを感じた。だが声がかからずよかったのかもしれない。何か話しかけられたら、それがどんな言葉であっても、あのときのぼくはブチ切れていたと思う。

海にではなく、家の背後の山に向かい、そのままとぼとぼと登った。自然と涙がこぼれ、ついに声を上げて泣いた。

泣きながらも、ぼくは山道(といっても車道だ)を歩きつづけた。だんだんと家が遠ざかっていき、心細くなったが、ぼくは歩きつづけた。

30分も歩いただろうか、あたりはいよいよ薄気味悪くなってきた。ちょっと前まではかろうじて存在した人の匂い、畑や、木こりのものらしき軽トラックの姿なども、もうなかった。

そこへ1人の老人が、のろのろと歩いてきた。

「坊主、どこへ行く」

仙人か? とぼくは思った。テレビの「まんが日本昔話」などに出てくる仙人そっくりだったのだ。

「なぜ、泣いてる?」

「おじいさん、仙人ですか?」と、そのときぼくが訊いたかどうかは、今は忘れてしまった。だが訊いたにしろ訊かなかったにしろ、そのときのぼくはその老人を仙人だと決めつけていた。今でも、本当に仙人だったのではないかと思うときがたまにある。

「話してみなさい」

仙人(?)にいわれ、ぼくはすべてを話した。自分の方がまちがっていると思われたくないから、ちょっとおおげさに、ときに嘘もまじえて話した。たとえば、弟たちのプラモデルは1500円以上で自分のサーキットの狼シリーズは200円くらいだといってみたり……。

仙人はぼくの話を聴いている間、何度も頷き、そして最後にこういった。

「坊主、おまえの悔しさはよくわかる。だからその悔しさをバネしなさい」
「バネ?」
「そうだ」仙人は大きく頷いた。「悔しさをバネにして、うんと勉強して、うんと立派な大人になって、自分で働いたお金で、本物のフェラーリを買うんだ。かっこいいぞ。それに比べたらプラモデルなんて、つまらんものさ」





30年以上経った今も、そのときの衝撃を忘れていない。

その言葉は、打ちひしがれていたぼくを元気づけただけでなく、その後の人生を大きく左右したのだ。

ぼくは誓った。というより、洗脳されたのだ。将来立派な大人になって(ビッグになって)、フェラーリ512BBを買う……、と。



夢だったのだろうか、と今でもときどき思う。
だが、たしかにあれは本当に起こった話だ。

もちろん、実際は仙人ではなく単なる地元の老人だったのだろう。だが、あのときのやり取り自体はたしかにおこなわれた。そしてあの老人は、ぼくにとっては仙人だ。





すっかり元気づけられたぼくは、足取り軽く山を下りた。
家に戻ると、弟とSのプラモデルが完成していた。ぼくはその出来栄えをほめてやり、おまけに弟にフェラーリディノのプラモデルをあげた。

「いいの?」(不思議そうな顔で)
「いいよ」(余裕な顔で)
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「べつに。おれはプラはもういいや」





その後ぼくは必死に勉強し、立派な大人になった……わけではない。

フェラーリも手にしていない。

だけど今でもぼくの心の中にあの仙人はすんでいて、そしてぼくは今なお、「いつかはこの手に……」と夢を追っているのだ。

フェラーリ(ではなくモーガンとか、とにかくかっこいい外車)を手に入れ、その車に乗って、今は亡き父の田舎にいく。そのときのことを想像し、ぼくは今日も努力をつづける。


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父の田舎 ~スーパーカーへの思い②

子どもの頃、隔年で父方の田舎に家族旅行に出かけていた。
場所は石川県珠洲市、いわゆる奥能登だ。
夏休みに入る一週間ほど前に、父から石川県行きの日程が発表される。
今年はいく年だ、とわかっていも、父の口からはっきりと「石川県にいく」と告げられると、ぼくと一つ下の弟は家の床が壊れそうなほどに大きく飛び上がり、喜び合ったものだった。

ぼくが小学3年、弟が2年のときも石川県にいった。

当時住んでいた千葉県鎌ケ谷市から車で15時間以上かけての(当時はまだ交通事情がわるかった)能登半島のほぼ北端までの大移動は、それ自体が子どものぼくらにっとっては大冒険だった。山、川、湖、そんな一つひとつの風景に大はしゃぎだった。

だがやはりクライマックスは、目的地の石川県珠洲市についたときだった。

父の育った家は目の前に広大な日本海が広がる絶好の場所で、これから1週間、毎日その海で遊べるのかと思うと、幸せで幸せでたまらなかった。

その家の家族構成を説明すると、まず父の姉夫婦(姉といっても父より20歳以上年が離れた婆さんで、両親を早くに亡くした父の親代わりだった)、その娘(この人はぼくや弟の従姉にあたるが、年齢は父と同じで、父とは兄妹のように育った。だからぼくは従姉だがおばさんと呼んだ)とそのお婿さん(仕事で方々に出張していて、ほとんど逢えない。そのときもいなかった)、そして従姉夫婦の息子のS(弟と同い年で、遠いながら血のつながりがあるからか弟とそっくりだった。ちなみにぼくと弟は年子なのになぜか1ミリも似ていない)の5人家族だ。ほかにSの兄と姉がいるが、二人とも高校を卒業して家を出ていた。

爺さんや婆さん(伯父さん伯母さん)、おばさん(従姉)とひとしきり話すと、あとは毎度のパターンで、ぼくと弟とSの3人で遊んだ。家にいるときも海で遊ぶときも、3人一緒にいるのが石川県旅行の常で、この年も当然のように3人でずっと一緒に遊んだ。それはもう大人たちがあきれるくらい、3人でかたまってすごした。



いや、正確には約2時間ほど、ぼくが一人きりになる時間があった。

一週間の滞在で、2時間だけ、ぼく一人の時間があったのだ。



これからその話をしようと思う。

そしてその話こそ、ぼくがなぜ、かっこいい車を買うことに固執しているか、という昨日の話につながってくるのだ。



その年、世間では空前のスーパーカーブームがわきおこっていた。
それはここ石川県でも同じだったらしく、ぼくら3人はそれぞれ数あるスーパーカーの中でどれが好きなのかという話に花を咲かせた。こんな話はすでに弟と2人で2万回以上話していたが、Sが入ることで、また新鮮に話すことができた。

ちなみにそのときの話では、弟がランボルギーニのカウンタック(弟はずっとランボルギーニ党で、イオタ、ミウラ、カウンタックと定期的に好みが入れかわった。この旅行のときはカウンタックだった)、Sはポルシェ930ターボ(とくに理由はないらしく、何となくかっこいいといっていた)、そしてぼくはフェラーリの512BB(これは当時ずっとかわらなかった。ルックスのかっこよさもさることながら、何といっても時速302キロで世界最速というところがたまらなかった)だった。

話は盛り上がったが、それでもしばらくすると話すだけではちょっと物足りなくなった。目の前にスーパーカーがたくさん載ってる雑誌か何かがあれば話も無限につづいたろうが、あいにくそんな気のきいたものは3人とも持ってなかった。話に飽きてきたので、昼ごはんの時間まで海にでもいこうか、と腰を上げかけた。

そこへ客がきた。

20歳前後くらいの2人組で、2人ともオートバイに乗っていた。どういう関係の人かわからなかったが、この家の人たちとかなり砕けた感じて話しており、また父とも知り合いのようだった。

何はともあれ、気のよさそうなお兄ちゃんの出現に、ぼくら3人は食いついた。

「このオートバイ、お兄ちゃんの?」
「何ていうオートバイ?」
「ねえ、スーパーカー見たたことある?」
「ねえ、お兄ちゃんたちはスーパーカーで何が好き?」

そんなふうに話しかけ、徐々に仲良くなっていったところへ、愛らしい顔を駆使しての憎まれないずうずうしさを持っていた弟が、こんなことをいい出したのだ。

「ねえ、お兄ちゃん、スーパーカーのプラモデル買ってえ」

ええっ、とぼくは驚いたが、同時に、いいぞ、と心の中で拍手した。
お兄ちゃんたちははじめはしぶっていたが、弟とSのおねだり(ぼくは1つだけとはいえ年長だったので、おねだりには参加しなかった。しかし心の中で応援していた)に勝てず、わかったよ1人一個ずつだな、と承諾したのだ。

そしてぼくらはお兄ちゃんたちに、それぞれほしい車種を告げた。

弟はカウンタック(なかったらミウラで、それもなかったらイオタ、と保険を利かしていた)、
Sはポルシェ(のどれかでなかったら何でもいい)
そしてぼくは当然フェラーリ512BB。

大喜びのぼくらは、お兄ちゃんたちが街(かなり遠い)にいっている間、海で泳いだり、釣りをしたりして遊んだ。

そして、昼食を終えた頃、庭先にオートバイのエンジン音が響いた。

「あっ、帰ってきた!」

ぼくらはダッシュで迎えた。

お兄ちゃんたちは約束どおりプラモデルを買ってきてくれたようだ。それらしき荷物を荷台にくくりつけてあった。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」



……ちょっと長くなったので、今日はこのへんまで。
つづきはまた明日ということで……





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チリ落盤事故

チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山に作業員が閉じ込められた落盤事故で、12日夜に開始された救出作業は13日午後9時55分(日本時間14日午前9時55分)、33人全員を無事引き上げて完了、空前の救出作戦は事故発生から69日ぶりに大成功のうちに終わった。
(時事通信)



久方ぶりのものすごいニュースだ。

あれだけの絶望的な事故で全員が救出されたのは、奇跡というほかない。

あの狭い空間の中で、かれらはどのようにして絶望を希望にかえたのだろうか。
69日ぶりに地上の空気を吸って、今どんな気持ちでいるのだろうか。
当事者でないとわからないだろう。



ところで……

この事故について、さっそく映画化うんぬんを言い出す人がいるらしい。
実際にもう動き出しているという。
ううん、とぼくはちょっと首をかしげるが、まあ、この事故の当事者である33人のすべてがよしとするならば、映画化もいいだろう。

ただその映画を製作する監督やスタッフ、俳優たちは、この特異な体験を表現できるのだろうか。
69日間の壮絶な戦いや、晴れて地上に出られたときの感覚を、どのように理解し、自分のものにして、表現するのか。

ぼくなら無理だ。

だけどプロの演者ならできるのかもしれない。

もしかしたらそれらしく表現するだけで、お涙ちょうだいが先行した、本質とずれたものができあがるのかもしれないが。

完成度の高いリアルな作品に仕上がるのなら、ぼくも観てみたい気はする。
だが当事者の33人がその映画を観て、「いやちがう、あんなんじゃなかった」というレベルのものなら、たとえエンターテイメントとしてすぐれたものができたとしても、たとえ感動的な大スペクタクル映画として賞レースを総なめにする映画になったとしても、ぼくは決して観ない。

で、予想では……
たぶん観ないことになると思う。

ああいった特異な体験を、体験していない者が理解するのはなかなかむずかしいものだと思うから。

ましてや、それを表現するなんて、ほとんど不可能だと思う。





話はかわるが……

くしくも1年前の今日10月14日、ぼくもある閉ざされた場所から、実に98日ぶりに地上に降りた、という経験をした。

「ある閉ざされた場所」というのは、南アルプスの山小屋で、ぼくは去年の1シーズン、そこのスタッフとして住みこみで働いていたのだ。

つらい日々だった……

仕事がきつかったわけではない。
たしかに朝3時台に起きてお客さんの朝食の準備をし、そこから掃除やら何やらを経て、夕食の片づけを終えるまでの長時間労働、それを休日なしでこなす、というのはなかなかのものだったが、そんなもんは屁でもなかった。それよりきつい仕事を過去にくさるほどしてきた。

つらかったのは、人間関係だ。

ずっと同じ場所に同じ顔ぶれですごすというのは、ものすごいストレスなのだ。
ましてやそこは山の上で、近くにうさをはらすための施設などはいっさいない。山と、空と、小屋と、客と、毎日かわらない同僚の顔があるだけ。

しかもぼくが配属された小屋にはMという古参のくそじじいがいて、そいつがぼくばかりを目の敵にしてどなり散らすのだ。

ほかのスタッフのミスはいらいらしつつも見逃し、ぼくが何かやらかした瞬間、そのほかの人のミスへの怒りも加算して、ぼくをどなりつける。

それはほかのスタッフがぼくに同情するほど露骨だった。

どうしてそうなるのかわからないが、相性とかそういう些細なことが理由だったのだと思う。
客観的に見ても、ぼくがほかの人と比べて能力が落ちるということはなかったはずだ。
むしろ部分的にはいい仕事をしてたと思う(たぶん)。

何しろ、べつの人なら何もいわれないことも、ぼくがやると「何やってんだ! こらあっ」となる。
逆にぼくかどなられたことを後日ほかの人がやらかしても、まったくのスルー。
それどころか他のスタッフにどなるべき場面でも、ぼくにどなってくる。
おまけに性格的にもくどくて、一つのことをねちねちといつまでもいいつづける。
いつまでも。
マジでいつまでも、だ。

その話はもう3週間も前に終わったことじゃねえかよお、と心の中で思いながら耳にする説教は、マジでストレスがたまった。

それがほとんど毎日のこと。

そんなつらい日々だったのだ。

例を挙げると、

ある日の朝の掃除とき、ぼくが玄関を掃き掃除しているところへ管理人(ぼくより少し若い)が話しかけてきて、何かくだらない雑談をしてぼくを笑わせた。その笑い声を聞いたM(じじい)が、ぼくを呼びつけ、「どうしておまえはそうなんだ。仕事中はおしゃべりするな(このMだって仕事中すげえおしゃべりするくせに)っていってんだろ! そうやって人にしゃべりかけることで、おまえは人の仕事も邪魔してるんだぞ……(くどくどくどくど×20分)」
(ええっ? 話しかけられたのおれなのに……)

とか

ある日の夕方、ほかのスタッフがお客さんの翌日のお弁当をつくっていて、それが少し時間がかかっていてM(じじい)が不機嫌になりつつあった。そこへお客さんから声がかかり、弁当をつくっていた人が応対に出た。その応対が長引きそうだったので、弁当づくりをぼくが引きついだところ、「おい、おまえいつまで弁当に時間くってんだ! ああっ? まったくおまえは手が遅すぎるんだよっ。何度もいわせんなよっ」とM(じじい)にどなられた。
(ええっ、おれにいうなよお。弁当つくってたやつにいえよお……)

とか、

そういう感じが、ほぼ毎日だ。

それ以外にも、料理の手順がわるい、と怒られるのは茶飯事だったし(仕事だから仕方ないとはいえ怒る基準が支離滅裂で、一貫性がない。つまり何をどうやっても怒られる)、仕事以外でも、ぼくの今までの人生についてものすごい言葉で否定した。何でおまえは独身なんだ、とか? 手に職もつけないで人生なめてんのか? とか。結局おまえは口先だけで生きてきたんだろ? とか。

きっとM(くそじじい)も、古参とはいえ、数カ月の山の中の生活にストレスを感じ、ぼくをどなり散らすことでどうにかバランスを取っていたんだろう。理由はむりやりにでもつくって。

もちろん機嫌がいいときもあった。だけどそんなときでも会話の節々で、「おれはいつもおまえ(ぼくのこと)が山から降りた後のことまで考えて厳しいことをいってやってるんだ。いまどき、そこまで他人のことを考えてくれるやつはいねえんだぞ。おれは昔堅気の男だからな。ありがたいだろ」と念を押してきた。それをいわれると、はい、というしかなくなるのだが、それもものすごく理不尽で、内心ムカついた。

ちなみに、その小屋のメンバーはぼくとMのほかに3人いたが、1人は管理人で、1人は弁が立つ大学の講師をしている人(大学の夏休みにバイトにきていた)、もう1人は若い女子大生で、M(じじい)にしてみると、何となく怒りづらいものがあったのだと思う。それで矛先はすべてぼくに向いたのだ。ぼくの雰囲気から、きっとこいつは打たれ強そうだから何を言ってもかまわないだろうと、決めつけていたのだろう。

実際ぼくは耐えた。

何度もどなり返そうかと思った。だが人間関係に亀裂が入れば、どちらかが山を降りるのが山小屋の仕事の暗黙のルールだったから(そうなれば力関係からぼくが降りるのは目に見えていた)、必死に耐えた。お金も必要だったし、期するところあって応募した仕事だったから、途中で山を降りるのだけは絶対いやだった。

幸い、管理人をはじめ他のスタッフがおもしろい人で、ものすごく気が合ったから、楽しい時間もあるにはあった。暇さえあれば、そのスタッフたちとM(じじい)のわる口をいってげらげら笑ったものだった。
それに休憩時間に、山域にある他の山小屋に遊びにいって、そこの管理人と話すのもストレスの解消になった。

それでも夜仕事が終わってから、畳二つ分のプライベートルームで、人知れず涙したことは何度もあった。
携帯もつながらない場所だったから、下界の家族や友人と電話で話すこともメールすることもできないから、だだ日記に恨みつらみを書きつつ、悔し涙を流すしかなかったのだ。

それしきのことで大の男が泣くなよ、という人もいるかもしれない。
実際、山を下りてからその話をすると、何人かの知人にそういわれた。
だけどそう思うのも仕方ないだろう。
同じ人間と、同じ場所で、24時間生活しつづけることのつらさは、やってみた人間にしか理解できないのだから。

まあ、そんなこんなで、どうにか耐え抜き、98日ぶりに山を下りたのが、1年前の今日、10月14日だったのだ。

ひさしぶりに見た人里、アスファルトの道路、人家の家並み、自動販売機、信号、看板、そんな何でもない物たちが、何と輝いて見えたことか!

これも山小屋でアルバイトをした人にしかわからないだろう。
それも少なくとも2カ月以上、ムカつく人間がいた小屋で働いた人だけにしか……。

だからもしも……

山小屋のスタッフの生活を描いた映画ができたとして、それをつくった人が山小屋のアルバイトの経験がなかったとしたら、ぼくは絶対にその映画を認めないだろう。

たとえ人気の女優や俳優をキャスティングした、感動的な物語に仕上がっていたとしても。

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