先週の土曜、20年来のつきあいの友人と酒を飲んだ。
その友人はぼくより2学年下で、だからぼくに対して敬語を使うのだが、それでもまあ友達だ。
親友ともいえるが、それより戦友という表現の方があっているかもしれない。
かれとは20代の頃にしていた仕事で出逢った。建築現場のアルバイトだ。いわゆる日雇い派遣で、仕事内容はきついもののそれなりの収入になり、また時間の融通もきくから、何か目的を持っている人にとって都合がいい仕事だった。
目的。あの頃、ぼくらはそれを夢と呼んでいた。
ぼくは当時、1年間のオーストラリアの放浪の旅から帰国したばかりで、もう一度そんな旅がしたくて、旅費を稼ぐためにその仕事をはじめた。旅をしながら、できれば小説を書きたい、そんなふうに考えていた。
一方、友人はプロのミュージシャンをめざしていた。そう、バンドマンだ。髪も長かったし、雰囲気もそれっぽくて、いわれなくてもかれがバンドをやっているのは容易に予想できた。
ぼくらが出逢ったのは、まだ寒さが残る2月の終わり、千葉県君津市のとある大型店で夜勤の仕事をしたときだった。
予定では朝までかかるはずだった仕事が、深夜の2時頃に終わった。終電はとっくに出てしまった時間なので、車できていた何人かのグループをのぞき、ぼくらは業者が用意してくれたビジネスホテルに投宿した。
そのとき相部屋になったのが、その友人だ。
大浴場(といっても小さく怪しげだったが)で汗を流し、ぼくらは部屋の布団にあぐらをかき、互いのことを話した。缶ビールを何本か飲みながら。数時間とはいえ一緒に仕事をし、かれの真面目な勤務態度を見ていたから、その時点ですでにぼくはかれに好感を抱いていた。建築現場の夜勤の、20歳前後のフリーターの仕事ぶりなんて、たいていはひどいものだ。実際そのとき一緒に働いたほとんどのメンバーは、強気にサボることこそ男気だ、などとかんちがいしている連中ばかりだった。そんな中、かれはきっちりと職務をまっとうしていた。もちろんぼくもだ。目の前のちっぽけな仕事一つできないやつにでっかい生き方はできない、というのが、当時の、そして今もつづいているぼくの考えだ。
だから、というのが理由のすべてではないが、ぼくらはすぐに意気投合した。
予想どおり、かれはバンドマンだった。ヴォーカルだという。趣味やファッションでやっているのではなく、プロをめざしてかなりマジでやっているようだった。そんなかれの話を聴いて熱くなり、出逢って間もないにもかかわらず、ぼくも自分の夢をかれに語った。後に聴いたのだが、かれの方も初対面の人間に自分を語るなんてことはまずしないタチらしく、つまりはかれもぼくのどこかに、自分と似た匂いを感じてくれていたのだろう。
それからちょくちょく現場で一緒になるようになり、そのたび友情も深くなっていった。肉体労働の中でも群を抜いて過酷であったその仕事も、友情を深めるのに一役買っていたと思う。きつくて打っ倒れそうになりつつもどうにか力を合わせて仕事をやり終えたときの充足感は、学生の頃の部活動の練習の後と同じ気分なのだ。いつしかぼくらは仕事が終わった後に、サシで飲むほどの仲になった。
飲んで話すのは、当然、互いの夢の話だ。
自分の夢を語って聴かせることで自分の思いの強さを確認し、相手の夢の話を聴くことで自分のうちにある情熱がさらに刺激された。
仕事で戦い、その後は街の居酒屋で夢を語る。もちろん、それ以外の時間は、自分の夢をつかむために戦っている。
そんな日々のくり返しで、いくつもの夏がすぎ、いくつもの冬を越した。
かれのライブにも足を運んだ。驚いた。技術的にもかなりのレベルであったが、何よりそんなものを超越した凄味があるのだ。歌、というより、それは叫びだった。本当に、狂おしいほどにかれは叫んでいた。ぼくにはそれが魂の叫びに聞こえた。魂が泣き叫んでいたのだ。夢をよこせ、と。とっととおれに夢をつかませろ、と。その叫びがぼくの胸にも強く響くから、ぼくはかれの歌を聴いて、ときには涙をにじませた。
そうだ、あの頃、ぼくらは哀しいくらいに夢の奴隷だった。
もしも悪魔が、魂と引き換えに夢をかなえてやる、といってきたら、当時のぼくはまちがいなく魂を差し出していただろう。人間性が破壊されても、ぼくは夢をかなえたかった。おそらく友人も同じ気持ちだったにちがいない。夢をつかむことこそがぼくらのすべてで、それがかなわないなら、それは死ぬのと同じことだと、あの頃は本当にそう考えていた。だから親や知人が何かまっとうな仕事の話を持ってきても、ぼくは即座にことわった。どんなに条件がいい話でもだ。そのことを理由に仲たがいした友人もいる。あいつは駄目だ、終わってるよ、という陰口が、風に乗ってぼくの耳に届いた。だけどしょうがないではないか。あの頃のぼくにとって、まっとうな仕事について落ちつくということは、自分を殺すことと同じだったのだ。
そう、ぼくにしても、20代の終わりに差しかかる頃は、マジで小説書きになろうとしていたのだ。きつい建築現場での仕事を終えると、家賃2万8千円のアパートで、夜遅くまで小説を書いた。どんなにつらくても、しぼり出すように言葉を放った。それもまた魂の叫びだった。友人がうたをとおして魂の叫びを人々に聴かせたように、ぼくは自分の叫びを原稿用紙にぶつけた。小説書きになる夢をかなえることだけが、ただ一つの生きる道だと思っていた。
書き上げた小説は出版社に持ちこんだ。そのたびボツになり、才能ないよ、と打ちのめされた。
心が折れたときも、ぼくらは2人で酒を飲んだ。そして弱い心に渇を入れた。酒を飲みながら、ぼくらは叫んだ。才能がないだと? ふざけんな! おれには才能があるんだ。そいつを磨くために努力だってするさ。そして絶対につかむんだ、自分の夢を……。
そうやってまたいくつもの夏がすぎ、いくつもの冬を越した。
2人とも30代になり、今まで以上に世間の目は冷たくなっていった。
夢は、依然としてはるかかなたにあった。まるで空にぎらつく太陽のように、はるか遠くに、高く、でっかく。
その太陽を自分のたもとに引きよせようと、ぼくらはもがいた。だけど、一向に引きよせられないまま、さらに季節はめぐっていった。
2人とも30代の半ばをすぎ、やがて40代が目の前まで迫ってきた。
身体はもう肉体労働に耐えられなくなっていた。動けなくなるのではなく、身体のあちこちが悲鳴を上げるのだ。肩、背中、腰、膝、ありとあらゆる場所に痛みが走り、仕事どころではなくなっていく。
そして……、
ぼくらはまっとうな暮らしをはじめた。
先に下りたのは友人だった。ぼくはその決断に祝福の言葉を送り、そしてその約1年後、自分も書くのをやめた。
魂の叫びを上げるのを、ぼくらはやめた。
そう、夢をあきらめたのだ。
それでも、ぼくらには納得があった。やるだけのことはやったんだ、と。おれは、おれたちはせいいっぱい夢に向かってまい進したんだ、と。口だけで夢を語って、努力もしなければ才能を磨くこともしなかった連中とはちがうんだ、と。
だからぼくらはその後も友人でいられた。戦友のままで。
まっとうな仕事を懸命にこなすことで、2人は生きていけた。
だけど……、
だけど、ぼくらは自分たちが考えるよりはるかに弱い人間だった。
夢がないと、生きていけなかった。夢がついえ、はるかかなたにさえその姿が見えなくなると、何もできなくなってしまう、弱い人間だった。
空に太陽がないと、人が生きていけなくなるように。
だからここ何年か、ぼくらは酒を飲んでも元気がなかった。自分は駄目だと、自分自身に烙印を押してしまったのだ。おれは、おれたちは、夢もつかめず、それでいてまっとうな生き方もできない、劣った人間なんだ、と。
それでいいじゃねえか。いつかまた新しい夢を抱くときまで、駄目な自分ってやつをとことん楽しもうや……。
前回飲んだときも、そんなふうにわけのわからない言い訳をしながら、ぬるくなったビールを口にした。飲み代の額を気にしながら。
去年の、春頃だったか。いや、夏か。季節すらおぼえていない。それほどに投げやりに生きていた。
それでも季節はめぐっていく。
その間にも、いろんなことがある。つらいことや哀しいこと、ときには楽しいこともある。人を好きになって傷ついたり、傷つけたり、そんなふうにして人は自分の人生を築いていくものだ。ちょっとずつ変化しながら。
そして今年、2人が出逢って20回目の夏がきた。
その暑い夏に、ぼくらはひさしぶりに酒を飲んだ。
ぼくはわくわくしていた。去年とちがい、ぼくにはみやげ話があったからだ。新しい夢を見つけた。すべてをかけて手に入れたい夢を。
それは、自分の店を持つことだ。
小さくていいから、食い物と飲み物を出す店を、ぼくはやりたいのだ。できれば、おでんを主体にした店。なぜなら、ぼくはたくさんの人をあったかい気持ちにさせてあげたいからだ。いろんなことに疲れた人や傷ついてしまった人を、ぼくの料理であったかい気持ちにさせてやりたいのだ。寂しくなったらおれの店にくればいいさ、といえる、そんな店を、ぼくはやりたい。
かれは喜んで話を聴いてくれた。そして驚いたことに、かれの方も見つけていたのだ。新しい夢を。
新しいというか、かれの場合は昔の夢を取り戻したようだ。それはもう一度うたうということだった。また魂の叫びを上げようとしているのだ。
その一歩をふみ出すのに、どれほど勇気が必要だったか。それがわかるから、ぼくはうれしかった。マジでうれしかった。
じゃあまた、と強い握手でぼくらは別れた。あんなふうに熱い気持ちでさよならできたのは、何年ぶりだろう。
今、ぼくは自分の店を持つために、料理の仕事をさがしている。年齢も年齢だし、自分が出したい店というのもざっくばらんな感じの店なので、そこまで本格的な料理をやるわけではない。それでもゼロからのスタートだし、きっと厳しい道になると思う。開業の資金も必要だから、早朝からの今の仕事もつづけるつもりだ。睡眠時間も削られ、体力的にもきつくなるだろう。
毎日、仕事を終えてから、見習いを募集している居酒屋をさがして街を歩く。すでに何軒かに門前ばらいをくらった。そのうちの一軒の店の主人は、ぼくの年齢を聞いてあきれたような顔をしたものだった。
ちくしょうと思う。打ちのめされそうにもなる。だけどぼくはやる。見てろよ、とその店の主人に心の中で毒づきながら、ぼくは真夏の街をふたたび歩き出した。
空には太陽がぎらついている。はるか遠くに、高く、でっかく。
追記
今日もご訪問いただき、本当にありがとうございました。みなさまの励ましのおかげで、このブログをはじめてから、もうじき2年になろうとしています。
このブログをはじめた2年前、ぼくはまっとうな仕事に挫折し、本当に空っぽな駄目な人間でした。そんな自分を見つめたり振り返ったりするのが怖くてたまりませんでした。世の中の人は、普通のことを普通にやっているのに、どうして自分はそれすらできないのか。生きていく価値などないのではないか。真剣にそんなふうに思っていました。つらくて、苦しくて、このまま消えてしまえばどんなに楽だろうかと、考えたことさえありました。
そんなとき、何かのきっかけになればと思い、このブログをはじめたのです。時間だけは、たっぷりとありましたから。
くだらないことばかりを書いてきましたが、それでも何もしないよりは充実していました。自分でもいい記事が書けたと思ったときにみなさまからコメントが入っていたりすると、胸が熱くなるほどうれしかったものです。今度はもっといい記事を書いてやろうと、負けん気が出たりもして。
それは本当に楽しい時間でした。小説書きになる夢をこんな形でかなえたのだ、とそんなふうにも思いました。
また、路上で詩を書いたり、震災復興のボランティアに出向いたり、ずっとやってなかったサーフィンを再開したり、いろいろなことにチャレンジした2年間でもありました。それをすべてこのブログで紹介できたのもよかったと思ってます。
ただみなさまもお気づきのとおり、最近はブログの更新が滞りがちになっています。だけどそれはサボるというより、むしろ自分の中で新しい道がめばえたからで、ぼくにとってそれは喜ばしいことなのです。今回の記事にも書きましたが、ぼくは自分の店を持ちたいのです。あったかい料理と酒と、楽しい時間を提示する店を。
そのための修業がはじまります。しばらく忙しい日々がつづくと思います。軍資金をためるためと料理や接客の技術を学ぶため、ぼくは2年間耐えてみようと思っています。
そのことに全精力を捧げるつもりでいます。
ですから、しばらく当ブログの運営を休止します。
途中になっている「北海道カヌーの旅」や姉妹ブログで連載中の「お父さんとの旅」についてですが、それは物語をはじめた責任上、ゆっくりですがつづけていこうと思っています。本当にゆっくりになると思いますが、必ず完結させます。
また、つらい修業の愚痴なんかも、ときおりはこぼしたくなると思います。
なので、休止ということで、閉鎖はいたしません。ときどきは更新しようと思っています。
ですから、本当に勝手でわがままなお願いなのですが、みなさまにはときどきでいいのでこの拙ブログを覗きにきてほしいと思ってます。
とにかく、ぼくは歩き出します。
そんなふうに新たな一歩を踏み出せるまでになったのも、このブログと、訪問してくださった多くのみなさまのおかげだと思っています。書くことで、読んでもらうことで、みなさまと対話することで、本当にぼくは救われました。心からお礼を申し上げます。ありがとう。
愚痴だけでなく、いい報告もできたらと思ってます。
みなさま、本当にありがとう。今まで当ブログに訪問してくださったすべての人の幸せを心から願っています。
平成24年8月、太陽がぎらつく日に。 ブログ『魂の落書き』管理人 道下 森
その友人はぼくより2学年下で、だからぼくに対して敬語を使うのだが、それでもまあ友達だ。
親友ともいえるが、それより戦友という表現の方があっているかもしれない。
かれとは20代の頃にしていた仕事で出逢った。建築現場のアルバイトだ。いわゆる日雇い派遣で、仕事内容はきついもののそれなりの収入になり、また時間の融通もきくから、何か目的を持っている人にとって都合がいい仕事だった。
目的。あの頃、ぼくらはそれを夢と呼んでいた。
ぼくは当時、1年間のオーストラリアの放浪の旅から帰国したばかりで、もう一度そんな旅がしたくて、旅費を稼ぐためにその仕事をはじめた。旅をしながら、できれば小説を書きたい、そんなふうに考えていた。
一方、友人はプロのミュージシャンをめざしていた。そう、バンドマンだ。髪も長かったし、雰囲気もそれっぽくて、いわれなくてもかれがバンドをやっているのは容易に予想できた。
ぼくらが出逢ったのは、まだ寒さが残る2月の終わり、千葉県君津市のとある大型店で夜勤の仕事をしたときだった。
予定では朝までかかるはずだった仕事が、深夜の2時頃に終わった。終電はとっくに出てしまった時間なので、車できていた何人かのグループをのぞき、ぼくらは業者が用意してくれたビジネスホテルに投宿した。
そのとき相部屋になったのが、その友人だ。
大浴場(といっても小さく怪しげだったが)で汗を流し、ぼくらは部屋の布団にあぐらをかき、互いのことを話した。缶ビールを何本か飲みながら。数時間とはいえ一緒に仕事をし、かれの真面目な勤務態度を見ていたから、その時点ですでにぼくはかれに好感を抱いていた。建築現場の夜勤の、20歳前後のフリーターの仕事ぶりなんて、たいていはひどいものだ。実際そのとき一緒に働いたほとんどのメンバーは、強気にサボることこそ男気だ、などとかんちがいしている連中ばかりだった。そんな中、かれはきっちりと職務をまっとうしていた。もちろんぼくもだ。目の前のちっぽけな仕事一つできないやつにでっかい生き方はできない、というのが、当時の、そして今もつづいているぼくの考えだ。
だから、というのが理由のすべてではないが、ぼくらはすぐに意気投合した。
予想どおり、かれはバンドマンだった。ヴォーカルだという。趣味やファッションでやっているのではなく、プロをめざしてかなりマジでやっているようだった。そんなかれの話を聴いて熱くなり、出逢って間もないにもかかわらず、ぼくも自分の夢をかれに語った。後に聴いたのだが、かれの方も初対面の人間に自分を語るなんてことはまずしないタチらしく、つまりはかれもぼくのどこかに、自分と似た匂いを感じてくれていたのだろう。
それからちょくちょく現場で一緒になるようになり、そのたび友情も深くなっていった。肉体労働の中でも群を抜いて過酷であったその仕事も、友情を深めるのに一役買っていたと思う。きつくて打っ倒れそうになりつつもどうにか力を合わせて仕事をやり終えたときの充足感は、学生の頃の部活動の練習の後と同じ気分なのだ。いつしかぼくらは仕事が終わった後に、サシで飲むほどの仲になった。
飲んで話すのは、当然、互いの夢の話だ。
自分の夢を語って聴かせることで自分の思いの強さを確認し、相手の夢の話を聴くことで自分のうちにある情熱がさらに刺激された。
仕事で戦い、その後は街の居酒屋で夢を語る。もちろん、それ以外の時間は、自分の夢をつかむために戦っている。
そんな日々のくり返しで、いくつもの夏がすぎ、いくつもの冬を越した。
かれのライブにも足を運んだ。驚いた。技術的にもかなりのレベルであったが、何よりそんなものを超越した凄味があるのだ。歌、というより、それは叫びだった。本当に、狂おしいほどにかれは叫んでいた。ぼくにはそれが魂の叫びに聞こえた。魂が泣き叫んでいたのだ。夢をよこせ、と。とっととおれに夢をつかませろ、と。その叫びがぼくの胸にも強く響くから、ぼくはかれの歌を聴いて、ときには涙をにじませた。
そうだ、あの頃、ぼくらは哀しいくらいに夢の奴隷だった。
もしも悪魔が、魂と引き換えに夢をかなえてやる、といってきたら、当時のぼくはまちがいなく魂を差し出していただろう。人間性が破壊されても、ぼくは夢をかなえたかった。おそらく友人も同じ気持ちだったにちがいない。夢をつかむことこそがぼくらのすべてで、それがかなわないなら、それは死ぬのと同じことだと、あの頃は本当にそう考えていた。だから親や知人が何かまっとうな仕事の話を持ってきても、ぼくは即座にことわった。どんなに条件がいい話でもだ。そのことを理由に仲たがいした友人もいる。あいつは駄目だ、終わってるよ、という陰口が、風に乗ってぼくの耳に届いた。だけどしょうがないではないか。あの頃のぼくにとって、まっとうな仕事について落ちつくということは、自分を殺すことと同じだったのだ。
そう、ぼくにしても、20代の終わりに差しかかる頃は、マジで小説書きになろうとしていたのだ。きつい建築現場での仕事を終えると、家賃2万8千円のアパートで、夜遅くまで小説を書いた。どんなにつらくても、しぼり出すように言葉を放った。それもまた魂の叫びだった。友人がうたをとおして魂の叫びを人々に聴かせたように、ぼくは自分の叫びを原稿用紙にぶつけた。小説書きになる夢をかなえることだけが、ただ一つの生きる道だと思っていた。
書き上げた小説は出版社に持ちこんだ。そのたびボツになり、才能ないよ、と打ちのめされた。
心が折れたときも、ぼくらは2人で酒を飲んだ。そして弱い心に渇を入れた。酒を飲みながら、ぼくらは叫んだ。才能がないだと? ふざけんな! おれには才能があるんだ。そいつを磨くために努力だってするさ。そして絶対につかむんだ、自分の夢を……。
そうやってまたいくつもの夏がすぎ、いくつもの冬を越した。
2人とも30代になり、今まで以上に世間の目は冷たくなっていった。
夢は、依然としてはるかかなたにあった。まるで空にぎらつく太陽のように、はるか遠くに、高く、でっかく。
その太陽を自分のたもとに引きよせようと、ぼくらはもがいた。だけど、一向に引きよせられないまま、さらに季節はめぐっていった。
2人とも30代の半ばをすぎ、やがて40代が目の前まで迫ってきた。
身体はもう肉体労働に耐えられなくなっていた。動けなくなるのではなく、身体のあちこちが悲鳴を上げるのだ。肩、背中、腰、膝、ありとあらゆる場所に痛みが走り、仕事どころではなくなっていく。
そして……、
ぼくらはまっとうな暮らしをはじめた。
先に下りたのは友人だった。ぼくはその決断に祝福の言葉を送り、そしてその約1年後、自分も書くのをやめた。
魂の叫びを上げるのを、ぼくらはやめた。
そう、夢をあきらめたのだ。
それでも、ぼくらには納得があった。やるだけのことはやったんだ、と。おれは、おれたちはせいいっぱい夢に向かってまい進したんだ、と。口だけで夢を語って、努力もしなければ才能を磨くこともしなかった連中とはちがうんだ、と。
だからぼくらはその後も友人でいられた。戦友のままで。
まっとうな仕事を懸命にこなすことで、2人は生きていけた。
だけど……、
だけど、ぼくらは自分たちが考えるよりはるかに弱い人間だった。
夢がないと、生きていけなかった。夢がついえ、はるかかなたにさえその姿が見えなくなると、何もできなくなってしまう、弱い人間だった。
空に太陽がないと、人が生きていけなくなるように。
だからここ何年か、ぼくらは酒を飲んでも元気がなかった。自分は駄目だと、自分自身に烙印を押してしまったのだ。おれは、おれたちは、夢もつかめず、それでいてまっとうな生き方もできない、劣った人間なんだ、と。
それでいいじゃねえか。いつかまた新しい夢を抱くときまで、駄目な自分ってやつをとことん楽しもうや……。
前回飲んだときも、そんなふうにわけのわからない言い訳をしながら、ぬるくなったビールを口にした。飲み代の額を気にしながら。
去年の、春頃だったか。いや、夏か。季節すらおぼえていない。それほどに投げやりに生きていた。
それでも季節はめぐっていく。
その間にも、いろんなことがある。つらいことや哀しいこと、ときには楽しいこともある。人を好きになって傷ついたり、傷つけたり、そんなふうにして人は自分の人生を築いていくものだ。ちょっとずつ変化しながら。
そして今年、2人が出逢って20回目の夏がきた。
その暑い夏に、ぼくらはひさしぶりに酒を飲んだ。
ぼくはわくわくしていた。去年とちがい、ぼくにはみやげ話があったからだ。新しい夢を見つけた。すべてをかけて手に入れたい夢を。
それは、自分の店を持つことだ。
小さくていいから、食い物と飲み物を出す店を、ぼくはやりたいのだ。できれば、おでんを主体にした店。なぜなら、ぼくはたくさんの人をあったかい気持ちにさせてあげたいからだ。いろんなことに疲れた人や傷ついてしまった人を、ぼくの料理であったかい気持ちにさせてやりたいのだ。寂しくなったらおれの店にくればいいさ、といえる、そんな店を、ぼくはやりたい。
かれは喜んで話を聴いてくれた。そして驚いたことに、かれの方も見つけていたのだ。新しい夢を。
新しいというか、かれの場合は昔の夢を取り戻したようだ。それはもう一度うたうということだった。また魂の叫びを上げようとしているのだ。
その一歩をふみ出すのに、どれほど勇気が必要だったか。それがわかるから、ぼくはうれしかった。マジでうれしかった。
じゃあまた、と強い握手でぼくらは別れた。あんなふうに熱い気持ちでさよならできたのは、何年ぶりだろう。
今、ぼくは自分の店を持つために、料理の仕事をさがしている。年齢も年齢だし、自分が出したい店というのもざっくばらんな感じの店なので、そこまで本格的な料理をやるわけではない。それでもゼロからのスタートだし、きっと厳しい道になると思う。開業の資金も必要だから、早朝からの今の仕事もつづけるつもりだ。睡眠時間も削られ、体力的にもきつくなるだろう。
毎日、仕事を終えてから、見習いを募集している居酒屋をさがして街を歩く。すでに何軒かに門前ばらいをくらった。そのうちの一軒の店の主人は、ぼくの年齢を聞いてあきれたような顔をしたものだった。
ちくしょうと思う。打ちのめされそうにもなる。だけどぼくはやる。見てろよ、とその店の主人に心の中で毒づきながら、ぼくは真夏の街をふたたび歩き出した。
空には太陽がぎらついている。はるか遠くに、高く、でっかく。
追記
今日もご訪問いただき、本当にありがとうございました。みなさまの励ましのおかげで、このブログをはじめてから、もうじき2年になろうとしています。
このブログをはじめた2年前、ぼくはまっとうな仕事に挫折し、本当に空っぽな駄目な人間でした。そんな自分を見つめたり振り返ったりするのが怖くてたまりませんでした。世の中の人は、普通のことを普通にやっているのに、どうして自分はそれすらできないのか。生きていく価値などないのではないか。真剣にそんなふうに思っていました。つらくて、苦しくて、このまま消えてしまえばどんなに楽だろうかと、考えたことさえありました。
そんなとき、何かのきっかけになればと思い、このブログをはじめたのです。時間だけは、たっぷりとありましたから。
くだらないことばかりを書いてきましたが、それでも何もしないよりは充実していました。自分でもいい記事が書けたと思ったときにみなさまからコメントが入っていたりすると、胸が熱くなるほどうれしかったものです。今度はもっといい記事を書いてやろうと、負けん気が出たりもして。
それは本当に楽しい時間でした。小説書きになる夢をこんな形でかなえたのだ、とそんなふうにも思いました。
また、路上で詩を書いたり、震災復興のボランティアに出向いたり、ずっとやってなかったサーフィンを再開したり、いろいろなことにチャレンジした2年間でもありました。それをすべてこのブログで紹介できたのもよかったと思ってます。
ただみなさまもお気づきのとおり、最近はブログの更新が滞りがちになっています。だけどそれはサボるというより、むしろ自分の中で新しい道がめばえたからで、ぼくにとってそれは喜ばしいことなのです。今回の記事にも書きましたが、ぼくは自分の店を持ちたいのです。あったかい料理と酒と、楽しい時間を提示する店を。
そのための修業がはじまります。しばらく忙しい日々がつづくと思います。軍資金をためるためと料理や接客の技術を学ぶため、ぼくは2年間耐えてみようと思っています。
そのことに全精力を捧げるつもりでいます。
ですから、しばらく当ブログの運営を休止します。
途中になっている「北海道カヌーの旅」や姉妹ブログで連載中の「お父さんとの旅」についてですが、それは物語をはじめた責任上、ゆっくりですがつづけていこうと思っています。本当にゆっくりになると思いますが、必ず完結させます。
また、つらい修業の愚痴なんかも、ときおりはこぼしたくなると思います。
なので、休止ということで、閉鎖はいたしません。ときどきは更新しようと思っています。
ですから、本当に勝手でわがままなお願いなのですが、みなさまにはときどきでいいのでこの拙ブログを覗きにきてほしいと思ってます。
とにかく、ぼくは歩き出します。
そんなふうに新たな一歩を踏み出せるまでになったのも、このブログと、訪問してくださった多くのみなさまのおかげだと思っています。書くことで、読んでもらうことで、みなさまと対話することで、本当にぼくは救われました。心からお礼を申し上げます。ありがとう。
愚痴だけでなく、いい報告もできたらと思ってます。
みなさま、本当にありがとう。今まで当ブログに訪問してくださったすべての人の幸せを心から願っています。
平成24年8月、太陽がぎらつく日に。 ブログ『魂の落書き』管理人 道下 森
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