刑務所のリタ・ヘイワース スティーブン・キング
木曜企画「道下森の本棚」
第1回は、スティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース(新潮文庫ゴールデンボーイに所収)」だ。

(注)ふろ場などでもくり返し読んでいるためボロボロです^_^;
無実の罪(殺人罪)で刑務所に入ったエリート銀行家が、ある手段を使って脱獄するというストーリーで、「希望」がテーマになっている。
主人公アンディー・デュフレーンの行動を、刑務所内の「調達屋」レッドが語っていくという手法で、物語は展開される。
映画「ショーシャンクの空に」の原作といえばわかりやすいかもしれない。
かなり人気のある映画だから、知っている人も多いと思う。
とにかく読んでない人は、一度読んでほしい。
映画だけ観て原作を読んでいない人はとくに。
この二つ、ストーリーは細部をのぞいてほとんど同じだ。
ただ二つだけ、大きくちがうシーンがある。
一つは、アンディーがレッドと出所後の話をするシーン。シワタネホにホテルを建てて暮すと告白するシーンだ。そこの調達屋になってくれないかと、アンディーがレッドをくどくシーン。
小説では、その資金は、最悪の事態のために入所前に準備しておいたとある。
映画では、その資金は、刑務所で所長の秘書的な仕事をしている際に、架空の名義口座に振りこんだことになっている。
どちらがいいかはむずかしいが、個人的な感想をいうと小説の方が「深い」と感じた。
もう一つは、ラストシーン。
出所したレッドが、先に脱獄していたアンディーをたずねにいくシーンだ。
小説はこう。
もちろん、あの町の名はおぼえている。シワタネホ。そんな美しい名前は忘れようたって、忘れられるもんじゃな い。
すっかり興奮しているようだ。あんまり興奮しるおかげで、手がふるえて、鉛筆が満足に握れない。これは自由 人だけが感じられる興奮だと思う。この興奮は、先の不確実な長旅に出発する自由人にしかわからない。
どうかアンディーがあそこにいますように。
どうかうく国境を越えられますように。
どうか親友に再開して、やつと握手ができますように。
どうか太平洋が夢の中とおなじような濃いブルーでありますように。
それがおれの希望だ。
と、そこで終わっている。
で、映画はこう。

※YouTubeなど動画がありますが、著作権の問題でリンクをご紹介できませんm(__)m
語りの部分はほぼ同じ、ちがうのは、先がわからないで終わっている小説に対し、映画は、最後にアンディーと逢うシーンが描かれているところだ。
これをどう評するか。
小説は、あくまで、この先どうなるかわからない、という心持ちのまま物語を終えている。「先が不確実な長旅に出発する自由人」であることを尊重しているのだ。長く刑務所という不自由な場所で暮らしていた者が、はじめて自由を意識した、希望を持った、先がわからないことに興奮している、だから物語も結末がわからないところで終わる。深い。小説らしい、いい終わらせ方だ。
一方、映画のラストシーンは、ストーリーにプラスして映像で勝負している。再開したアンディーとレッドの何ともいえない笑顔もすばらしいし、スクリーン一面に広がる太平洋の青さも、映画のラストをかざるのにふさわしいといえる。
つまり、どちらもいいのだ。
そんな物語は、珍しいと思う。
たいていはどちらかが(ほとんどの場合は映画が)おとるものだ。
そんなわけで、記念すべき第1回『道下森の本棚』にふさわしい本を紹介できたと思う。
みなさんもぜひ、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」と映画「ショーシャンクの空に」を比べて、楽しんでみてください。
では、また来週(^.^)/~~~


http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
応援のクリックをしていただけると、励みになります。
↓

第1回は、スティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース(新潮文庫ゴールデンボーイに所収)」だ。

(注)ふろ場などでもくり返し読んでいるためボロボロです^_^;
無実の罪(殺人罪)で刑務所に入ったエリート銀行家が、ある手段を使って脱獄するというストーリーで、「希望」がテーマになっている。
主人公アンディー・デュフレーンの行動を、刑務所内の「調達屋」レッドが語っていくという手法で、物語は展開される。
映画「ショーシャンクの空に」の原作といえばわかりやすいかもしれない。
かなり人気のある映画だから、知っている人も多いと思う。
とにかく読んでない人は、一度読んでほしい。
映画だけ観て原作を読んでいない人はとくに。
この二つ、ストーリーは細部をのぞいてほとんど同じだ。
ただ二つだけ、大きくちがうシーンがある。
一つは、アンディーがレッドと出所後の話をするシーン。シワタネホにホテルを建てて暮すと告白するシーンだ。そこの調達屋になってくれないかと、アンディーがレッドをくどくシーン。
小説では、その資金は、最悪の事態のために入所前に準備しておいたとある。
映画では、その資金は、刑務所で所長の秘書的な仕事をしている際に、架空の名義口座に振りこんだことになっている。
どちらがいいかはむずかしいが、個人的な感想をいうと小説の方が「深い」と感じた。
もう一つは、ラストシーン。
出所したレッドが、先に脱獄していたアンディーをたずねにいくシーンだ。
小説はこう。
もちろん、あの町の名はおぼえている。シワタネホ。そんな美しい名前は忘れようたって、忘れられるもんじゃな い。
すっかり興奮しているようだ。あんまり興奮しるおかげで、手がふるえて、鉛筆が満足に握れない。これは自由 人だけが感じられる興奮だと思う。この興奮は、先の不確実な長旅に出発する自由人にしかわからない。
どうかアンディーがあそこにいますように。
どうかうく国境を越えられますように。
どうか親友に再開して、やつと握手ができますように。
どうか太平洋が夢の中とおなじような濃いブルーでありますように。
それがおれの希望だ。
と、そこで終わっている。
で、映画はこう。
![]() |
新品価格 |

※YouTubeなど動画がありますが、著作権の問題でリンクをご紹介できませんm(__)m
語りの部分はほぼ同じ、ちがうのは、先がわからないで終わっている小説に対し、映画は、最後にアンディーと逢うシーンが描かれているところだ。
これをどう評するか。
小説は、あくまで、この先どうなるかわからない、という心持ちのまま物語を終えている。「先が不確実な長旅に出発する自由人」であることを尊重しているのだ。長く刑務所という不自由な場所で暮らしていた者が、はじめて自由を意識した、希望を持った、先がわからないことに興奮している、だから物語も結末がわからないところで終わる。深い。小説らしい、いい終わらせ方だ。
一方、映画のラストシーンは、ストーリーにプラスして映像で勝負している。再開したアンディーとレッドの何ともいえない笑顔もすばらしいし、スクリーン一面に広がる太平洋の青さも、映画のラストをかざるのにふさわしいといえる。
つまり、どちらもいいのだ。
そんな物語は、珍しいと思う。
たいていはどちらかが(ほとんどの場合は映画が)おとるものだ。
そんなわけで、記念すべき第1回『道下森の本棚』にふさわしい本を紹介できたと思う。
みなさんもぜひ、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」と映画「ショーシャンクの空に」を比べて、楽しんでみてください。
では、また来週(^.^)/~~~
![]() |
新品価格 |

![]() |
新品価格 |

http://shigerumichishita.blog86.fc2.com/
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
応援のクリックをしていただけると、励みになります。
↓

スポンサーサイト