探偵はバーにいる 東直己
世の中がどんなにくさりきってしまっても、本屋にいけば最高の友達に出逢えます。
こんにちは。「道下森の本棚」の時間がやってきました。
さて、今日紹介する本はこれ。
東直己著「探偵はバーにいる」だ。
まずは本の内容。
札幌の歓楽街ススキノで便利屋をなりわいにする「俺」は、いつものようにバーの扉をあけたが…今夜待っていたのは大学の後輩。同棲している彼女が戻ってこないという。どうせ大したことあるまいと思いながら引き受けた相談事は、いつのまにか怪しげな殺人事件に発展して…ヤクザに脅されても見栄をはり、女に騙されても愛想は忘れない。真相を求め「俺」は街を走り回る。面白さがクセになる新感覚ハードボイルド登場。
(「BOOK」データベースより)
この本は『ススキノ探偵シリーズ』の第1作で、1992年に発表された。その後20年間で、「バーにかかってきた電話(1993年)」「消えた少年(1994年)」「向う端にすわった男(1996年)」「探偵はひとりぼっち(1998年)」「探偵は吹雪の果てに(2001年)」「駆けてきた少女(2004年)」「ライト・グッドバイ(2005年)」「探偵、暁に走る(2007年)」「旧友は春に帰る(2009年)」「半端者-はんぱもん-(2011年)」「猫は忘れない(2011年)」が発表されている。東直己が手がけるシリーズものの中でも、とくに人気の高いシリーズといえよう。
とはいえ、ハードボイルド小説が苦手なぼくは、このシリーズのどの本も一度として読もうとは思わなかった。というより、存在すら知らなかった。だが去年「探偵はBARにいる」のタイトルで映画が公開された(映画の原作はシリーズ第2作の『バーにかかってきた電話』)のを機に、興味がわいた。もっとも興味を持ったのは映画の方だった。主演が大泉洋だし(世間はもっと大泉洋の才能を評価すべきだ)、助演が松田龍平だし、舞台が札幌(道下の第二の故郷だ)だっつうことで、絶対に観にいこうと思っていたのだ。
そんな映画だったが、結局観にいかなかった。だったらせめて原作「バーにかかってきた電話」を読もうと思い、いやいやそれならまずはシリーズ第1作の「探偵はバーにいる」を読もうじゃないかと思い直し、先日、図書館で借りてきたというわけだ。
で、読みはじめてすぐ、「うっ、やっぱりハードボイルドは苦手だわ」と思った。いや、ハードボイルド小説だからというより、この小説の持つ全体の雰囲気が駄目だった。文体がくどかったり、比喩が大げさだったり、説明不足な場面が多かったり、逆に物語に関係ない場面での説明が長かったり、登場人物のイメージがあやふやだったり……と、挙げればきりがない。肝心の物語の中で起こる「事件」も、何だか退屈に思えた。
主人公の<俺>にも感情移入できなかった。朝から酒ばっかり飲んでいて(まったく酔わない)、カードゲームで稼いだ金(ものすごい額)や、ちょっとした頼まれごとの報酬で暮らし、喧嘩が妙に強く、頭もめっぽう切れ、人を見下した態度ばかり取り……と、まあ、とにかく、絶対に友達になりたくないやつなのだ。「力」はあるが、情がない、そんな感じなのだ。
いつもならすぐに読むのをやめていただろう。だが読みつづけた。何となく、本を閉じる気になれなかった。
読んでいくうちに、少しずつではあるが、独特の文体に慣れてきた。主人公の<俺>も、ここまで徹底していやなやつとして描かれるならまあいいか、と思えてきた。いや、むしろちょっと好きになってきた。金を持ってて、頭も切れて、喧嘩も強くて、人脈も持ってて、すげえいやなやつだけど、どこか愛嬌みたいなものがあるように感じるのだ。
で、中盤をすきだあたりから、もう<俺>の動きから目が離せなくなった。
もちろん、こんなやつ、現実にいたら絶対に友達になりたくない気持ちにはかわりはなかった。自分自身がこんなやつになりたくないとも強く思う。
それでも感情移入していったのは、現実社会ではありえない強気で迷いのない行動力に、心のどこかであこがれを抱いたからだろう。
で、<俺>がどう行動していくのかを見届けるようにして、最後まで読んだ。
だけど物語そのものは、退屈だった。酷評するが、最後まで退屈なままだった。
しかし、しかし、だ。
この本が退屈なハードボイルド小説であるか、と訊かれたら、ぼくは首を横に振る。この本は決して退屈な小説ではない。物語は退屈だったが、ぼくはこの本を良書として紹介したい。
それは、一つ心に引っかかる言葉が見られたからだ。
言葉というか、場面というか、<俺>の思想というか、とにかく強烈に印象的だったくだりがあるのだ。
<俺>があるチンピラの子分につけられ、そいつと争いになるシーン。<俺>はその子分から事件に関する情報を聴き出そうと、こんな言葉で挑発する。
「俺はな、落ちこぼれのゴミとは話をしないんだ。お前、高校中退だろう。俺は低能が嫌いでな。小学中学とバカ面下げて鼻垂らして教室の片隅でうつむいてたやつは身体が臭いんだよ。お前、字も読めねぇだろう。トーチャンがアル中、カーチャンはヒステリー、参観日が恥ずかしい、家庭訪問からは逃げ回るって一家だ。学校のゴミ、町内会のクズってヤツよ。お前もよ、似合いの低能女にしか相手にされなくてな……」
チンピラの子分は、<俺>のその言葉に逆上する。どの言葉が一番刺激したかはわからない。だがその言葉は、チンピラの子分の心を確実にえぐった。
<俺>としても、必ずしも本意ではなかったのだ。しばしの格闘の後、すぐにこうあやまっている。
「悪かったな。本当にすまなかった。さっきはあんなこと言ったけど、本気じゃないんだ。学歴なんてどうってことないさ。俺は別に偏見なんか持ってないんだ。俺の友達にも中卒や高校中退は何人もいる。人間の価値は学歴じゃ決まんないよ、つまらん説教と思うだろうけど。本当に悪かった」
そういったものの。<俺>は、なおもチンピラの子分にデカイ口をたたくことを許さず、情報を聴き出そうと手荒にあつかう。それでも<俺>は、落ちこぼれを馬鹿にした台詞に対してだけは、きっちりと悪かったと思っているのだ。自己嫌悪さえ抱くほどに。
その後、このチンピラの子分は何者かに殺されるのだが、その死に顔を見た<俺>は、あんなこといって悪かったなぁ。いまさらお前になにを言っても始まらないが、あのセリフだけは、本当に済まなかったなぁ、といって涙ぐむ。
これは印象的なシーンだった。
そうやすやすと泣くようなタマではないのだ、<俺>は。何しろハードボイルド小説の主人公なのだから。だのに泣いた。たいした関わりもない、物語でいえば端役にすぎない若者のために涙するのだ。
さらに<俺は>その後、ビルの屋上にいき、手すりによりかかって街を見下ろす。見下ろしながら、死んでしまったチンピラの子分に思いをはせる。くり返すが、<俺>とその若者の間にある関係といえば、ほんの小さな敵対関係以外にないのだ。
たぶん、あいつは分数の計算ができなかったのだろう。俺は長い間、家庭教師をやって、いろいろな子どもたちと勉強してきた。さまざまな状況があった。小学校の便所浚いのようなケースもあった。教師たちから見放され、小学校の便槽に捨てられて窒息死を待たされている子どもを救い出す、言ってみれば、そんなような仕事もあった。
その時の経験からすると、子どもが最初にぶつかる関門は、約分通分だ。もちろん、それ以前の、生れてから八年あまりの人生が大きな原因であるにせよ、今の日本ではこの時期に全ての人間が三種類に選別される。易々と通過する人間と、なんとかクリヤーする人間と、落ちこぼれだ。ここでつまずいた人間は、多くの場合、救援の手も差し伸べられずに、残りの数十年の人生を、落ちこぼれとして生きていくことになる。理不尽な話だが、そうだ。俺はオカダ(※チンピラの子分)の小学校中学校生活を思いやってみた。授業中の不安と孤独と屈辱を思いやってみた。あいつは高校に行ったことがあるのだろうか。もし行ったとしても、それは利潤のネタとして、かろうじて存在を許されている高校生でしかなかっただろう。そして、社会全体からはゴミのかたまりと同じように認識され、蔑みの対象である「あそこの高校」の中に収容されるということで、教室での孤独はなかったとしても、溌剌とした少年時代とは無縁のものだったに違いない。
そして俺は、その彼に向って、あんなひどい言葉を浴びせた。
あくまでも強気で、自画自賛のかたまりのようにして生き、人に対してやさしさも弱みも見せない、ハードボイルド小説の主人公の典型である<俺>が、長い物語の中でたった一度だけ見せる人間の弱さだ。それだけに、ものすごく強い言葉として、ぼくの心に残った。
それだけだ。
たったそれだけのことで、ぼくにとってこの本は忘れられないものとなったのだ。
たぶん、あと数日も経てば、本のストーリーなどすべて忘れてしまうだろう。白状すると、読み終えたばかりの今も、よくおぼえていない。このチンピラの子分(オカダ)が、誰に、どのようにして殺されたかすらおぼえていない。その程度の物語だった。
けれども、上で紹介したあの<俺>の言葉だけは、今後ずっとおぼえているだろう。そういう読書もあっていいではないかと思っている。
もしかしたら、それがハードボイルド小説の持つ魅力なのかもしれない。そうだとしたら、苦手苦手といわず、たまに読むのもいいかなと思う。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。よかったら、今までに紹介した「道下森の本棚」も、ぜひご覧になってください。
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オリジナルワンな生き方 ヒュー・マクラウド
スローカーブを、もう一球 山際淳司
リッツカールトンで育まれたホスピタリティノート 高野登
船に乗れ 藤谷治
ルリユールおじさん いせひでこ
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神さまはハーレーに乗って ジョン・ブレイディ
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最後の授業 アルフォンス・ドーテ
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休息の山 沢野ひとし
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鉄道員(ぽっぽや) 浅田次郎
やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる 三田誠広
やさいのかみさま カノウユミコ
お金の科学 ジェームス・スキナー
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こちらの姉妹ブログで、自作の小説を連載中です。第1話から読めますので、ぜひ覗いてみてください。

ここからどうぞ→お父さんとの旅『入り口』
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東直己著「探偵はバーにいる」だ。
まずは本の内容。
札幌の歓楽街ススキノで便利屋をなりわいにする「俺」は、いつものようにバーの扉をあけたが…今夜待っていたのは大学の後輩。同棲している彼女が戻ってこないという。どうせ大したことあるまいと思いながら引き受けた相談事は、いつのまにか怪しげな殺人事件に発展して…ヤクザに脅されても見栄をはり、女に騙されても愛想は忘れない。真相を求め「俺」は街を走り回る。面白さがクセになる新感覚ハードボイルド登場。
(「BOOK」データベースより)
この本は『ススキノ探偵シリーズ』の第1作で、1992年に発表された。その後20年間で、「バーにかかってきた電話(1993年)」「消えた少年(1994年)」「向う端にすわった男(1996年)」「探偵はひとりぼっち(1998年)」「探偵は吹雪の果てに(2001年)」「駆けてきた少女(2004年)」「ライト・グッドバイ(2005年)」「探偵、暁に走る(2007年)」「旧友は春に帰る(2009年)」「半端者-はんぱもん-(2011年)」「猫は忘れない(2011年)」が発表されている。東直己が手がけるシリーズものの中でも、とくに人気の高いシリーズといえよう。
とはいえ、ハードボイルド小説が苦手なぼくは、このシリーズのどの本も一度として読もうとは思わなかった。というより、存在すら知らなかった。だが去年「探偵はBARにいる」のタイトルで映画が公開された(映画の原作はシリーズ第2作の『バーにかかってきた電話』)のを機に、興味がわいた。もっとも興味を持ったのは映画の方だった。主演が大泉洋だし(世間はもっと大泉洋の才能を評価すべきだ)、助演が松田龍平だし、舞台が札幌(道下の第二の故郷だ)だっつうことで、絶対に観にいこうと思っていたのだ。
そんな映画だったが、結局観にいかなかった。だったらせめて原作「バーにかかってきた電話」を読もうと思い、いやいやそれならまずはシリーズ第1作の「探偵はバーにいる」を読もうじゃないかと思い直し、先日、図書館で借りてきたというわけだ。
で、読みはじめてすぐ、「うっ、やっぱりハードボイルドは苦手だわ」と思った。いや、ハードボイルド小説だからというより、この小説の持つ全体の雰囲気が駄目だった。文体がくどかったり、比喩が大げさだったり、説明不足な場面が多かったり、逆に物語に関係ない場面での説明が長かったり、登場人物のイメージがあやふやだったり……と、挙げればきりがない。肝心の物語の中で起こる「事件」も、何だか退屈に思えた。
主人公の<俺>にも感情移入できなかった。朝から酒ばっかり飲んでいて(まったく酔わない)、カードゲームで稼いだ金(ものすごい額)や、ちょっとした頼まれごとの報酬で暮らし、喧嘩が妙に強く、頭もめっぽう切れ、人を見下した態度ばかり取り……と、まあ、とにかく、絶対に友達になりたくないやつなのだ。「力」はあるが、情がない、そんな感じなのだ。
いつもならすぐに読むのをやめていただろう。だが読みつづけた。何となく、本を閉じる気になれなかった。
読んでいくうちに、少しずつではあるが、独特の文体に慣れてきた。主人公の<俺>も、ここまで徹底していやなやつとして描かれるならまあいいか、と思えてきた。いや、むしろちょっと好きになってきた。金を持ってて、頭も切れて、喧嘩も強くて、人脈も持ってて、すげえいやなやつだけど、どこか愛嬌みたいなものがあるように感じるのだ。
で、中盤をすきだあたりから、もう<俺>の動きから目が離せなくなった。
もちろん、こんなやつ、現実にいたら絶対に友達になりたくない気持ちにはかわりはなかった。自分自身がこんなやつになりたくないとも強く思う。
それでも感情移入していったのは、現実社会ではありえない強気で迷いのない行動力に、心のどこかであこがれを抱いたからだろう。
で、<俺>がどう行動していくのかを見届けるようにして、最後まで読んだ。
だけど物語そのものは、退屈だった。酷評するが、最後まで退屈なままだった。
しかし、しかし、だ。
この本が退屈なハードボイルド小説であるか、と訊かれたら、ぼくは首を横に振る。この本は決して退屈な小説ではない。物語は退屈だったが、ぼくはこの本を良書として紹介したい。
それは、一つ心に引っかかる言葉が見られたからだ。
言葉というか、場面というか、<俺>の思想というか、とにかく強烈に印象的だったくだりがあるのだ。
<俺>があるチンピラの子分につけられ、そいつと争いになるシーン。<俺>はその子分から事件に関する情報を聴き出そうと、こんな言葉で挑発する。
「俺はな、落ちこぼれのゴミとは話をしないんだ。お前、高校中退だろう。俺は低能が嫌いでな。小学中学とバカ面下げて鼻垂らして教室の片隅でうつむいてたやつは身体が臭いんだよ。お前、字も読めねぇだろう。トーチャンがアル中、カーチャンはヒステリー、参観日が恥ずかしい、家庭訪問からは逃げ回るって一家だ。学校のゴミ、町内会のクズってヤツよ。お前もよ、似合いの低能女にしか相手にされなくてな……」
チンピラの子分は、<俺>のその言葉に逆上する。どの言葉が一番刺激したかはわからない。だがその言葉は、チンピラの子分の心を確実にえぐった。
<俺>としても、必ずしも本意ではなかったのだ。しばしの格闘の後、すぐにこうあやまっている。
「悪かったな。本当にすまなかった。さっきはあんなこと言ったけど、本気じゃないんだ。学歴なんてどうってことないさ。俺は別に偏見なんか持ってないんだ。俺の友達にも中卒や高校中退は何人もいる。人間の価値は学歴じゃ決まんないよ、つまらん説教と思うだろうけど。本当に悪かった」
そういったものの。<俺>は、なおもチンピラの子分にデカイ口をたたくことを許さず、情報を聴き出そうと手荒にあつかう。それでも<俺>は、落ちこぼれを馬鹿にした台詞に対してだけは、きっちりと悪かったと思っているのだ。自己嫌悪さえ抱くほどに。
その後、このチンピラの子分は何者かに殺されるのだが、その死に顔を見た<俺>は、あんなこといって悪かったなぁ。いまさらお前になにを言っても始まらないが、あのセリフだけは、本当に済まなかったなぁ、といって涙ぐむ。
これは印象的なシーンだった。
そうやすやすと泣くようなタマではないのだ、<俺>は。何しろハードボイルド小説の主人公なのだから。だのに泣いた。たいした関わりもない、物語でいえば端役にすぎない若者のために涙するのだ。
さらに<俺は>その後、ビルの屋上にいき、手すりによりかかって街を見下ろす。見下ろしながら、死んでしまったチンピラの子分に思いをはせる。くり返すが、<俺>とその若者の間にある関係といえば、ほんの小さな敵対関係以外にないのだ。
たぶん、あいつは分数の計算ができなかったのだろう。俺は長い間、家庭教師をやって、いろいろな子どもたちと勉強してきた。さまざまな状況があった。小学校の便所浚いのようなケースもあった。教師たちから見放され、小学校の便槽に捨てられて窒息死を待たされている子どもを救い出す、言ってみれば、そんなような仕事もあった。
その時の経験からすると、子どもが最初にぶつかる関門は、約分通分だ。もちろん、それ以前の、生れてから八年あまりの人生が大きな原因であるにせよ、今の日本ではこの時期に全ての人間が三種類に選別される。易々と通過する人間と、なんとかクリヤーする人間と、落ちこぼれだ。ここでつまずいた人間は、多くの場合、救援の手も差し伸べられずに、残りの数十年の人生を、落ちこぼれとして生きていくことになる。理不尽な話だが、そうだ。俺はオカダ(※チンピラの子分)の小学校中学校生活を思いやってみた。授業中の不安と孤独と屈辱を思いやってみた。あいつは高校に行ったことがあるのだろうか。もし行ったとしても、それは利潤のネタとして、かろうじて存在を許されている高校生でしかなかっただろう。そして、社会全体からはゴミのかたまりと同じように認識され、蔑みの対象である「あそこの高校」の中に収容されるということで、教室での孤独はなかったとしても、溌剌とした少年時代とは無縁のものだったに違いない。
そして俺は、その彼に向って、あんなひどい言葉を浴びせた。
あくまでも強気で、自画自賛のかたまりのようにして生き、人に対してやさしさも弱みも見せない、ハードボイルド小説の主人公の典型である<俺>が、長い物語の中でたった一度だけ見せる人間の弱さだ。それだけに、ものすごく強い言葉として、ぼくの心に残った。
それだけだ。
たったそれだけのことで、ぼくにとってこの本は忘れられないものとなったのだ。
たぶん、あと数日も経てば、本のストーリーなどすべて忘れてしまうだろう。白状すると、読み終えたばかりの今も、よくおぼえていない。このチンピラの子分(オカダ)が、誰に、どのようにして殺されたかすらおぼえていない。その程度の物語だった。
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白夜行 東野圭吾
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休息の山 沢野ひとし
最後の冒険家 石川直樹
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