先日の定休日、「まちのひブルーマンデープロジェクト」を開催した。
このプロジェクトは、フジテレビ系列で毎週金曜日に放送している酒のツマミになる話を、そのまんまぼくらで集まってやろうという、まあいってみればお遊びだ。毎月第2第4月曜日(今後月一にする予定)、19時半から開催している。※8月は新型コロナウィルス感染拡大のため休止
遊びとはいったが、いちおうは「プロジェクト」だから、当然そこには達成すべき目的がある。
週の初めの月曜、みんなで集まって馬鹿話して、憂鬱を吹き飛ばそう、利害関係のない人同士が対等の立場で、ああでもないこうでもないと大笑いしながらしゃべりまくろう、そうやってみんなで元気になって、ハッビーになって、その収益(酒代から原価を引いた金額)を、WFP(国連世界食糧計画)に寄付しよう、そういうプロジェクトだ。ぼくらの馬鹿話で世界を助けよう、そんなプロジェクトなのだ。
このプロジェクトを立ち上げて3カ月、今まで4回開催した。収益の累計は1万5千円。そのすべてをWFPに寄付した。まだまだ小さい金額だが、つづけていくことによってその金額は大きくなっていくだろう。
で、今回は5回目の開催だ。7人(ぼくを入れて8人)集まった。
今回はさまざまな年代の人が参加してくれた。女性も2人いたから、いろんな角度から話が流れていって、すごく面白かった。
たとえば、仮面ライダーの話になっても、それぞれ好きなライダーは世代によってかわってくる。ぼくらロートルがいうライダーは、V3とかせいぜいストロンガーとかだが、若い人たちの話すライダーはなんだかわかんねえ名前ばかりだった(向こうからすれば我々がいうライダーの方がわからないんだろうけど)。
あとびっくりしたのが、あの不朽の名作「太陽にほえろ」を知らない世代がいるってことだ。冷静に考えたらそりゃそうなのだが、まあびっくりだった。
あとは食べ物なんかも、これは世代に関係なくいろんな意見がぶつかり合って、なかなか白熱した。
まあ、しゃべったしゃべった。そして笑った。おおいに笑った。
で、いつものように酒代をいただいて(この催しは料理の提供はなし。ぼくも飲んで話すので。だから酒代のみ)、お開きとなった。
後片づけして、家路につく。
その途中でセブンイレブンにより、WFP(国連世界食糧計画)に寄付した。今回は4千円だ。この金額で緊急時(紛争や災害など)の避難者2人の1カ月分の食料がまかなえる。ぼくらの馬鹿話が、遠い国の誰かを救うのだ。素敵なことだとぼくは思う。
そして自分たちも元気になれる。
みんな元気になっただろうか。
ぼくはいっぱい元気をもらった。みんなありがとう。
こんな感じでやってるので、興味のある方はぜひ参加してください。参加は自由です。
では、また。
当店のホームページはこちらから
このプロジェクトは、フジテレビ系列で毎週金曜日に放送している酒のツマミになる話を、そのまんまぼくらで集まってやろうという、まあいってみればお遊びだ。毎月第2第4月曜日(今後月一にする予定)、19時半から開催している。※8月は新型コロナウィルス感染拡大のため休止
遊びとはいったが、いちおうは「プロジェクト」だから、当然そこには達成すべき目的がある。
週の初めの月曜、みんなで集まって馬鹿話して、憂鬱を吹き飛ばそう、利害関係のない人同士が対等の立場で、ああでもないこうでもないと大笑いしながらしゃべりまくろう、そうやってみんなで元気になって、ハッビーになって、その収益(酒代から原価を引いた金額)を、WFP(国連世界食糧計画)に寄付しよう、そういうプロジェクトだ。ぼくらの馬鹿話で世界を助けよう、そんなプロジェクトなのだ。
このプロジェクトを立ち上げて3カ月、今まで4回開催した。収益の累計は1万5千円。そのすべてをWFPに寄付した。まだまだ小さい金額だが、つづけていくことによってその金額は大きくなっていくだろう。
で、今回は5回目の開催だ。7人(ぼくを入れて8人)集まった。
今回はさまざまな年代の人が参加してくれた。女性も2人いたから、いろんな角度から話が流れていって、すごく面白かった。
たとえば、仮面ライダーの話になっても、それぞれ好きなライダーは世代によってかわってくる。ぼくらロートルがいうライダーは、V3とかせいぜいストロンガーとかだが、若い人たちの話すライダーはなんだかわかんねえ名前ばかりだった(向こうからすれば我々がいうライダーの方がわからないんだろうけど)。
あとびっくりしたのが、あの不朽の名作「太陽にほえろ」を知らない世代がいるってことだ。冷静に考えたらそりゃそうなのだが、まあびっくりだった。
あとは食べ物なんかも、これは世代に関係なくいろんな意見がぶつかり合って、なかなか白熱した。
まあ、しゃべったしゃべった。そして笑った。おおいに笑った。
で、いつものように酒代をいただいて(この催しは料理の提供はなし。ぼくも飲んで話すので。だから酒代のみ)、お開きとなった。
後片づけして、家路につく。
その途中でセブンイレブンにより、WFP(国連世界食糧計画)に寄付した。今回は4千円だ。この金額で緊急時(紛争や災害など)の避難者2人の1カ月分の食料がまかなえる。ぼくらの馬鹿話が、遠い国の誰かを救うのだ。素敵なことだとぼくは思う。
そして自分たちも元気になれる。
みんな元気になっただろうか。
ぼくはいっぱい元気をもらった。みんなありがとう。
こんな感じでやってるので、興味のある方はぜひ参加してください。参加は自由です。
では、また。
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何年かぶりに、この古いブログを開いている。
読み返すと不思議な気分になる。まだ未熟な、もちろん今だってまだまだ未熟だけれど、それよりさらに数段未熟な自分がにいる。ここで、この古いブログの中で、確実に生きている。生きて、馬鹿みたいに叫んでいる。
これを書きはじめた頃のぼくは、人生のどん底にいた。夢にやぶれ、真っ当な仕事に就いたもののその仕事にも挫折し、先が見えない不安と戦っていた。そこから立ち上がり、どうにか人生を取り戻そうと、悪戦苦闘していた。その軌跡が、この古いブログにつづられているのだ。
たとえば2012年8月、こんな記事を書いている。→あの頃ぼくらは夢の奴隷だった
そう、この記事にあるように、あの夏、ぼくは自分の店を持とうと決めた。経験も貯金もない、ゼロからのスタートだった。
あの夏から10年、ぼくは自分の店を持った。おでん屋だ。千葉県のとある下町に根づいて7年、小さい店だが、まあまあ繁盛している。
もちろんつらいこともある。体力的にもきつい日々だ。少しでも気を抜けば客はすぐに離れていくし、そうでなくても景気や天候にも左右される、そんな厳しい世界だ。今日がよくても明日も大丈夫だという保証はない。先が見えないのは、あの頃と同じなのだ。
だけどあの頃とちがって、今のぼくには道がある。
つらくてもきつくても、この店をつづけていくという道があるのだ。それがこの10年で手に入れた一番の収穫だ。
正直なところ、店の現状は厳しい。パンデミックがはじまる前はほとんど毎日満席になっていたのに、今はその状況にはほど遠い。閑古鳥が鳴く日も珍しくない。
それでもぼくには道がある。
だから迷わない。下を向いている時間はないのだ。ただただこの道を歩いていく。前を見て、一歩一歩進んでいく。
大丈夫、道はあってる……
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月曜、オフの日の朝は身体がぐったりしていて、思うように動かない。焼き魚と納豆、みそ汁だけの朝食を取るのに、たっぷり1時間半かかる。食欲がないのではない。疲れすぎて、箸を持つ手が動かないのだ。
飲食の仕事は、スポーツの試合みたいにはげしく動く。それを二つかけもちしているのだから、いってみれば毎日ダブルヘッダーをこなしているようなものだ。しかも、ぼくの場合、週の半分以上が明らかな睡眠不足だ。全身に蓄積される疲労はハンパじゃない。
とくに先週は、前の日(日曜)が商店街の祭りだったから、いつもの何倍も身体は疲れていた。夕方5時からの通常の営業に加えて、昼の12時から夕方5時すぎまで、露店でおでんと生ビールを出したのだ。朝の仕事と合わせて、その日の労働時間は18時間におよんだ。通勤時間も合わせると、20時間以上、仕事に費やしたことになる。
朝食を終え、部屋で読書とうたた寝をくり返す。そうしているうちに、少しずつ意識がめざめていく。そして、せっかくのオフをこのまま部屋でゴロゴロしているわけにはいかない、と思いはじめる。身体はまだ完全に回復していないのに、気持ちがそわそわしてくるのだ。
で、夕方、海にいく。

2時間の波乗りは、バスケットの試合を1試合こなすのと同じだ、と聞いたことがある。それがたしかなデータに基づいたものかはわからないが、体感的にもそれくらいだと思う。
1週間、ダブルヘッダーをこなした疲れきった身体で、バスケットの試合にのぞむ。身体はさらにくたくたになるだろう。それでも、ぼくにとってオフの日の波乗りは、仕事と同じくらいたいせつなものだ。
2時間、めいいっぱい波乗りをし、家路につく。
夕方の空気が乾いていて、かすかに秋の気配がした。
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今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
こちらの姉妹ブログで、自作の小説を連載中です。第1話から読めますので、ぜひ覗いてみてください。

ここからどうぞ→お父さんとの旅『入り口』
飲食の仕事は、スポーツの試合みたいにはげしく動く。それを二つかけもちしているのだから、いってみれば毎日ダブルヘッダーをこなしているようなものだ。しかも、ぼくの場合、週の半分以上が明らかな睡眠不足だ。全身に蓄積される疲労はハンパじゃない。
とくに先週は、前の日(日曜)が商店街の祭りだったから、いつもの何倍も身体は疲れていた。夕方5時からの通常の営業に加えて、昼の12時から夕方5時すぎまで、露店でおでんと生ビールを出したのだ。朝の仕事と合わせて、その日の労働時間は18時間におよんだ。通勤時間も合わせると、20時間以上、仕事に費やしたことになる。
朝食を終え、部屋で読書とうたた寝をくり返す。そうしているうちに、少しずつ意識がめざめていく。そして、せっかくのオフをこのまま部屋でゴロゴロしているわけにはいかない、と思いはじめる。身体はまだ完全に回復していないのに、気持ちがそわそわしてくるのだ。
で、夕方、海にいく。

2時間の波乗りは、バスケットの試合を1試合こなすのと同じだ、と聞いたことがある。それがたしかなデータに基づいたものかはわからないが、体感的にもそれくらいだと思う。
1週間、ダブルヘッダーをこなした疲れきった身体で、バスケットの試合にのぞむ。身体はさらにくたくたになるだろう。それでも、ぼくにとってオフの日の波乗りは、仕事と同じくらいたいせつなものだ。
2時間、めいいっぱい波乗りをし、家路につく。
夕方の空気が乾いていて、かすかに秋の気配がした。
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お盆の間、店が休みなので、朝の仕事が終わった後、電車に乗って吉祥寺へ出かけた。
めざすは居酒屋界のモンスター「いせや総本店」だ。吉祥寺にある焼き鳥屋の老舗で、創業は何と1928年(焼き鳥屋としての営業開始は1958年)だという。
いせやの存在は、以前読んだ「吉田類の酒場放浪記」で知った。(参照→)みっちーの本棚「吉田類の酒場放浪記」
ついでに動画も紹介。
将来、自分の店を持とうというのだから、一度はいってみたいとずっと思っていた。で、じつは5月の連休のときに一度おとずれたのだ。だが時刻が夕方5時頃で、また休日ということもあって、店の外には大行列ができていた。もくもくとたちこめる炭火の煙や、店内からもれる活気もともなって、ものすごい迫力だった。並ぶかどうか迷ったあげく、中に入れるのは相当後だと思い、その日は泣く泣くやめておいたのだ。
※ちなみに、ちょうどそのとき入院中の店長から電話があり、仕事についていろいろと指示をされた後、N(息子)を助けてやってくれ、といわれた。まあ、それはべつの話だが。
それから3カ月後、ついにあこがれの「いせや」にいってきた。

残念ながら、店は創業当初のものではなく、2008年に改築されているのだが、それでもできるかぎり旧店舗の建物を再現してある。じゅうぶんに昭和の雰囲気を味わえる店がまえだ。
午後の2時。さすがにこの時間では行列こそできていなかったが、1階の店内はほぼ満席だった。ネームバリューもあるとはいえ、ものすごい客の入りだ。
いらっしゃい、1名様? カウンターの空いた席にどうぞ……
あまり愛想がいいとはいえない案内でカウンターの席へと座ると、まずは瓶ビール(サッポロの大瓶)を頼んだ。それと枝豆と、ミックス焼き鳥(4本=320円)をタレで。
焼き鳥はうまかった。ただ正直、激ウマ! とまではいかなかった。だけど雰囲気などはじゅうぶんに楽しめた。大瓶1本では物足りなかったので、焼酎のロックと焼きトウモロコシをもらった。
飲み、そして食べている間、食い入るように店員の動きを見る。どの人が店のリーダーで、どの人が店のエースで、どの人が縁の下の力持ちかを見極め、自分の仕事に生かしていく。今は縁の下の力持ちに徹しているから、そういう役割を担っている人の動きを観察し、盗めるものは盗んでいく。
ほろ酔いで店を出て、井の頭公園に向かう。ベンチに腰かけ、最近、少し悩むところがある朝の仕事について思いをはせた。

夕方前、明日の仕事のことを考え、早めに家路についた。
お盆の間の、ある1日の話。
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めざすは居酒屋界のモンスター「いせや総本店」だ。吉祥寺にある焼き鳥屋の老舗で、創業は何と1928年(焼き鳥屋としての営業開始は1958年)だという。
いせやの存在は、以前読んだ「吉田類の酒場放浪記」で知った。(参照→)みっちーの本棚「吉田類の酒場放浪記」
ついでに動画も紹介。
将来、自分の店を持とうというのだから、一度はいってみたいとずっと思っていた。で、じつは5月の連休のときに一度おとずれたのだ。だが時刻が夕方5時頃で、また休日ということもあって、店の外には大行列ができていた。もくもくとたちこめる炭火の煙や、店内からもれる活気もともなって、ものすごい迫力だった。並ぶかどうか迷ったあげく、中に入れるのは相当後だと思い、その日は泣く泣くやめておいたのだ。
※ちなみに、ちょうどそのとき入院中の店長から電話があり、仕事についていろいろと指示をされた後、N(息子)を助けてやってくれ、といわれた。まあ、それはべつの話だが。
それから3カ月後、ついにあこがれの「いせや」にいってきた。

残念ながら、店は創業当初のものではなく、2008年に改築されているのだが、それでもできるかぎり旧店舗の建物を再現してある。じゅうぶんに昭和の雰囲気を味わえる店がまえだ。
午後の2時。さすがにこの時間では行列こそできていなかったが、1階の店内はほぼ満席だった。ネームバリューもあるとはいえ、ものすごい客の入りだ。
いらっしゃい、1名様? カウンターの空いた席にどうぞ……
あまり愛想がいいとはいえない案内でカウンターの席へと座ると、まずは瓶ビール(サッポロの大瓶)を頼んだ。それと枝豆と、ミックス焼き鳥(4本=320円)をタレで。
焼き鳥はうまかった。ただ正直、激ウマ! とまではいかなかった。だけど雰囲気などはじゅうぶんに楽しめた。大瓶1本では物足りなかったので、焼酎のロックと焼きトウモロコシをもらった。
飲み、そして食べている間、食い入るように店員の動きを見る。どの人が店のリーダーで、どの人が店のエースで、どの人が縁の下の力持ちかを見極め、自分の仕事に生かしていく。今は縁の下の力持ちに徹しているから、そういう役割を担っている人の動きを観察し、盗めるものは盗んでいく。
ほろ酔いで店を出て、井の頭公園に向かう。ベンチに腰かけ、最近、少し悩むところがある朝の仕事について思いをはせた。

夕方前、明日の仕事のことを考え、早めに家路についた。
お盆の間の、ある1日の話。
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今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
こちらの姉妹ブログで、自作の小説を連載中です。第1話から読めますので、ぜひ覗いてみてください。

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去年の8月、ぼくは、自分の店を持とうと決めた。
その頃に書いた記事を読み返しつつ、この1年を振り返ってみた。
2012/8/10「ぼくだけのオリンピック~ロンドンオリンピック開催中の今、語りたいこと」
2012.8.18「終戦記念日に靖国神社にいってきた」
2012.8.22「あの頃ぼくらは夢の奴隷だった~またはブログ休止のお知らせ」
決意して直後の8月の末に某居酒屋チェーン店で働きはじめ、すぐに何も学べないと気づいて退職した。そして9月におでん屋の老舗の看板を持つ店での修業がはじまった。雇い主であり、生まれてはじめての師でもあった店長のもと必死で働いた。日中の仕事(食品の仕分け)とのかけもちは正直つらかったけど、自分の目標に向かって着実に進んでいると思うと、そのきつさにも耐えられた。
暮れに店長が病に倒れて入院し、店を長期休業することとなった。その頃、食品の仕事もやめていたぼくは、店が再開するまでのツナギでホテルの宴会サービスの仕事についた。軍隊のように厳しいホテルでの業務は、心が折れそうになることもしばしばあったけど、その分、技術的にも精神的にも鍛えられた。
やがて店長が退院し、2月の終わりに店の営業を再開した。同時に、朝5時から昼前までのセミナーハウスでの朝食バイキングの仕事も得て、ふたたび二つの仕事をかけもちするタフな修業の日々がはじまった。
この頃から店長が亡くなる5月半ばまでが、ぼくにとって最も濃密な時間だったと思う。
店長は、もうじき消えてなくなる命を削るようにして、ぼくと、店の跡取りとなる息子のNさんに仕事を伝授した。ふらふらの身体で、でき得るかぎり店に立ち、Nさんにはこの店で出す一品料理のつくり方や仕こみの手順、仕入れのやり方などを、ぼくには自分の店を持つために、店をやっていくために、必要となる技術や心構えといったありとあらゆるものを教えてくれた。それは口頭で教えてくれたこともあったし、態度で示してくれたこともあった。
今、ぼくらは店長亡き後、必死に店を守っている。ぼくら2人の素人料理人と、店長の娘のMさんと、アルバイトのHさんとの4人で。はじめは不安な船出だった。奇跡への挑戦だった。常連客に叱咤されながら、必死に店をつづけていった。味がかわったといわれないように、サービスが落ちたといわれないように、客足が遠のくことがないように……。
そのがんばりが身を結んだのか、あるいは店長が見守っていてくれているのか、おかげさまで店は今も客足が途絶えない。地域で1、2を争う繁盛店としてやっていけている。それは自分1人の力では決してないけれど、それでもやっぱり自信につながる。
今日は8月15日。終戦記念日だ。店がお盆で休業なので、例年どおり靖国神社に参拝にいけた。今年は1日前倒しして、14日にいってきた。

去年と同様、英霊たちに語りかける。俺はやります、と。
不安で、だけど希望に満ちていた去年の同じ日から早1年、自分なりにやってきた結果が自信につながっている。
だけどまだこれからだ。
自分の店を持つまでの道のりは、まだ遠くけわしい。
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ここからどうぞ→お父さんとの旅『入り口』
その頃に書いた記事を読み返しつつ、この1年を振り返ってみた。
2012/8/10「ぼくだけのオリンピック~ロンドンオリンピック開催中の今、語りたいこと」
2012.8.18「終戦記念日に靖国神社にいってきた」
2012.8.22「あの頃ぼくらは夢の奴隷だった~またはブログ休止のお知らせ」
決意して直後の8月の末に某居酒屋チェーン店で働きはじめ、すぐに何も学べないと気づいて退職した。そして9月におでん屋の老舗の看板を持つ店での修業がはじまった。雇い主であり、生まれてはじめての師でもあった店長のもと必死で働いた。日中の仕事(食品の仕分け)とのかけもちは正直つらかったけど、自分の目標に向かって着実に進んでいると思うと、そのきつさにも耐えられた。
暮れに店長が病に倒れて入院し、店を長期休業することとなった。その頃、食品の仕事もやめていたぼくは、店が再開するまでのツナギでホテルの宴会サービスの仕事についた。軍隊のように厳しいホテルでの業務は、心が折れそうになることもしばしばあったけど、その分、技術的にも精神的にも鍛えられた。
やがて店長が退院し、2月の終わりに店の営業を再開した。同時に、朝5時から昼前までのセミナーハウスでの朝食バイキングの仕事も得て、ふたたび二つの仕事をかけもちするタフな修業の日々がはじまった。
この頃から店長が亡くなる5月半ばまでが、ぼくにとって最も濃密な時間だったと思う。
店長は、もうじき消えてなくなる命を削るようにして、ぼくと、店の跡取りとなる息子のNさんに仕事を伝授した。ふらふらの身体で、でき得るかぎり店に立ち、Nさんにはこの店で出す一品料理のつくり方や仕こみの手順、仕入れのやり方などを、ぼくには自分の店を持つために、店をやっていくために、必要となる技術や心構えといったありとあらゆるものを教えてくれた。それは口頭で教えてくれたこともあったし、態度で示してくれたこともあった。
今、ぼくらは店長亡き後、必死に店を守っている。ぼくら2人の素人料理人と、店長の娘のMさんと、アルバイトのHさんとの4人で。はじめは不安な船出だった。奇跡への挑戦だった。常連客に叱咤されながら、必死に店をつづけていった。味がかわったといわれないように、サービスが落ちたといわれないように、客足が遠のくことがないように……。
そのがんばりが身を結んだのか、あるいは店長が見守っていてくれているのか、おかげさまで店は今も客足が途絶えない。地域で1、2を争う繁盛店としてやっていけている。それは自分1人の力では決してないけれど、それでもやっぱり自信につながる。
今日は8月15日。終戦記念日だ。店がお盆で休業なので、例年どおり靖国神社に参拝にいけた。今年は1日前倒しして、14日にいってきた。

去年と同様、英霊たちに語りかける。俺はやります、と。
不安で、だけど希望に満ちていた去年の同じ日から早1年、自分なりにやってきた結果が自信につながっている。
だけどまだこれからだ。
自分の店を持つまでの道のりは、まだ遠くけわしい。
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